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2006年08月29日

◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(三)




◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(三)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、信濃・木曽・遠州

 長野県下伊那郡阿智村の「安布知(あふち)神社」は、明治時代迄「新羅明神社」であり、祭神は現在も「新羅大明神(須佐之男命)」である。古代の信濃は「壬申の乱」の際には大海人皇子を支援し、美濃の後方部隊として兵力供給を行ったといわれており、いわゆる新羅系渡来人と関係の深い土地であったようだ。

 また、天武天皇(大海人皇子)と縁の深い安曇(あずみ)氏族や尾張氏族、及び古代渡来系の人々の居住地に係る地名が数多く散見する。これは縄文時代~弥生時代の渡来氏族と考えられ、諏訪神社の祭神・建御名方神(天照大御神に対する出雲の国譲りの際に、出雲から信濃の諏訪に逃亡したといわれる神)からも、出雲族が信濃に多く分布していたことを意味する。

 また、長野県下伊那郡駒場村之内曽山に白髯神社(白髭神社)があり、近江からの勧請といわれている。『村誌』によれば「抑々白髯大明神と申し奉るは本国近江の国浅井郡湖水のほとりに鎮座ましまされ候て、一号佐々木大神とも申し奉るに……此の地へ遷し奉候由来は、私の先祖佐々木左近太夫と申す者、元来近江の国細江の庄の住人にて……。元禄年中采女より十二代の孫吉左衛門の代にあたり、当所新羅大明神の神主林杢太夫と申す者申し候は白髯明神の祭礼、其外造営遷宮諸事、この方の指図を請け申す可き旨……。夫より後は、神祭りの砌り湯立等は必ず新羅明神の神主を頼み申候。」とある。

 白髯神社(白髭神社)も一説によればシラギの別称で、新羅神社であるといわれている。岐阜県多治見市にも新羅神社があり、静岡県浜松市にも新羅神社が存在する(※注1)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)実は、岐阜県には天武天皇(大海人皇子)と関係する神社がある。岐阜県加茂郡七宗町の御佩山(みはぎやま)の頂上近くに鎮座する、神渕(かんぶち)神社だ。この神渕神社は「弥栄(やえ)天王」とも呼ばれ、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)と、ヤマタノオロチを退治した十拳剣神霊が祀られている。

 神渕神社の社記によると、大海人皇子(のちの天武天皇)が、壬申の乱の時、吉野を出て岐阜県の不破の仮宮に進出した六七二年六月、自ら祀られたと記録されている。なぜ、天武天皇は、壬申の乱に臨んでスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)と神剣(十拳剣神霊)を祀ったのか・・・? 

 天武天皇の心境(心に期する決意)を垣間見る思いである(素盞嗚尊の神剣と天武天皇の関わりについては、もう一つある。朱鳥元年・六八六年、天武天皇の病が重くなったので「戊寅に、天皇の病を卜うに、草薙剣(新羅の僧に盗まれそうになり、その後宮中に置かれていた)に祟れり。即日に、尾張国の熱田社に送り置く(『日本書紀』巻第二十九、天武天皇下、朱鳥元年六月戊寅条)」とある)。

 この地・尾張・美濃地域は、天火明命(ニギハヤヒ命?)の末裔・新羅系の尾張氏たちの勢力圏とされている。その後の天武-持統朝をみると、遣新羅使(遣唐使は約三十年間途絶)、白鳳文化の北朝仏教文化(中国北朝→高句麗→新羅)から、親新羅政権を窺うことが出来る。


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2006年08月27日

◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(二)




◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(二)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、奥州(出羽・陸奥)
 山形県南部の置賜盆地(米沢盆地、最上川の上流)の東端には新羅神社(東置賜郡高畠町)が現存している。新羅神社のある山裾を東から西にかけてそれぞれ一メートル位の間隔で八幡神社・賀茂神社・新羅神社が存在しており、それらの神社については源氏三兄弟にかかわる伝説が伝わっている。

 またこの近くには、近江からの勧請といわれる白髭神社(白髭明神は大陸から帰化して近江を開墾した氏族の祭神であったものが猿田彦に転じたものとされている)がある。白髭神社も一説によればシラギの別称で、新羅神社であるといわれている。近江出身の人々がこの地に多く移住していたことが考えられそうだ。

 さらに福島県相馬地方の「相馬馬追」の武士団の中には新羅明神を信奉していた武士がいたようである。「相馬野馬追」の「神旗争奪戦」の神旗の中に「新羅大明神」なる宇多郷の一条氏に関係する神旗があり、『衆臣系譜』によれば、「鎮守が素戔鳴尊垂迹新羅大明神、三井寺鎮守」とあり、更に家紋は割菱(武田氏の紋)、幕紋は菅であるそうだ。すると、素戔鳴尊=新羅大明神なのであろうか?

 また、東置賜郡からさほど遠くない宮城県柴田郡には新羅三郎義光(※注1)や新羅系渡来人と縁の深い土地「新羅の郷」(宮城県柴田郡支倉)がある。「新羅の郷」の説明文(川崎町教育委員会)によると、前九年の役の折、源氏の武将・新羅三郎義光が新羅(朝鮮)の帰化人三十七人を率いて、この地に住まわせたそうだ。支倉(はせくら)に住んだ新羅人は優れた技術を持っていたので、砂鉄を精錬して武器と農具を作って戦役の用に供し、それ以来新羅の郷と呼ぶようになったとされている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)源義光は、近江志賀の天台宗・園城寺(おんじょうじ、滋賀県大津市園城寺町)の鎮守の一つである新羅善神堂・新羅明神(しんらみょうじん)の社前で元服して、「新羅三郎義光」と名乗るようになる。源義光は、知謀に富み、弓馬の名手で、笙(しょう)に長じた武将とされ、各地に史跡・史料が残っている。

 右馬允、左衛門尉を経て左兵衛尉の任にあった寛治一年八月(一〇八七年)、いわゆる「後三年の役」における兄義家の苦戦を聞き、官職を辞してはせ参じた話は有名である。

 乱の平定後、義光は刑部丞に任ぜられ、常陸守・甲斐守を経て、刑部少輔にまで進みます。刑部丞に在任中、常陸国に下り、菊田庄を手に入れる。刑部丞の職にありながら常陸国に下った理由は定かではないが、当時の常陸国は豊かな国であったそうだ。

 「後三年の役」を通じて、その豊かさに目をつけた義光は、ここを地盤として、一族の勢力を扶植しようとしたと思われる。後、常陸国久慈郡佐竹郷を本拠として興る佐竹家、及び信濃国の武田・安田・小笠原等の諸家の祖となった。


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2006年08月23日

◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(一)




◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(一)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、奥州(陸奥国)

 東北地方には、八幡神社・賀茂神社・新羅神社が数多く存在しており、それらの神社については源氏三兄弟(源義家〔八幡太郎義家〕・源義綱〔賀茂次郎義綱〕・源義光〔新羅三郎義光〕)にかかわる伝説が伝わっている。東北地方の新羅神社・新羅明神は、源氏の将・新羅三郎義光の子孫が園城寺(三井寺)より勧請したものであることは確かなようで、新羅三郎義光や新羅系渡来人と縁の深い土地に鎮座している。

 青森県には「新羅神社」が三社と、合祠の「新羅神社」が一社ある。青森県八戸市の新羅神社(長者山新羅神社)は、神社発行の案内書によると、祭神は「素盞嗚尊」と「新羅三郎義光命」の二神、相殿に六神。御神体は、「素盞嗚尊」については「鏡」、「新羅三郎義光命」については木造の座像であるとのことである(明治二年の神社制度確立により社号を三社堂から「新羅神社」に改め、祭神も「八坂神社」「新羅神社」「金毘羅宮」となって三社合祀の社殿とされている。昭和五十一年「長者山新羅神社」と改称)。

 また、青森県三戸郡南部町(南部郷〔甲斐・山梨県〕より入部した南部氏の領した土地)の新羅神社も、祭神は「素盞嗚命」と「新羅三郎義光」の二神である。青森県上北郡十和田湖町大字奥入瀬字北向十(下川目)にも新羅神社がある。祭神は「新羅三郎義光」で、創建年代は不詳だが、南部光行本人か或いはその子孫に関係があることは間違いなさそうだ。さらに、青森県八戸市八幡字八幡丁三番地の「櫛引八幡宮」に「新羅神社」が合祀されている。


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2006年08月21日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十八)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十八)

◆◇◆京の夏を送る化野念仏寺の「千灯供養」

 八月二十三日、京都市右京区の化野念仏寺 (あだしのねんぶつじ)で、石仏や石塔に灯明を供えて無縁仏を供養する「千灯供養」が営まれる。夕暮れとともに、多くの参拝者が訪れ、石仏の周囲に蝋燭を供える。約八千体の石仏の蝋燭の炎がそよ吹く風に揺らめき、幻想的な光の海が浮かび上がる。暑さが止むとされる「処暑」に、幻想的な雰囲気が秋の気配を感じさせる。

 小倉山の麓にあたる嵯峨化野(さがあだしの)周辺は古くから庶民の風葬の地として知られており、化野念仏寺は空海が故人の霊を弔うために建立したとも伝えられている。石仏は「西院(さい)の河原」と呼ばれる一角にあり、「千灯供養」は明治時代、当時の当時の住職が散在していた石仏や石塔を集めて弔ったのが始まりとされている。

◆◇◆化野念仏寺 (あだしのねんぶつじ)の歴史

 化野念仏寺は、正式には、華西山東漸院(かせいざんとうぜんいん)と称する浄土宗の寺である。化野は、鳥野辺、蓮台野とともに古来より葬送の地として知られている。弘仁年間(八一〇~八二四)、空海が、小倉山寄りの地を金剛界、曼陀羅山よりの地を胎蔵界に見立てて千体の石仏を埋め、両界の中間を流れる曼陀羅川の河原に五智如来の石仏を立て、堂を建立し、五智如来寺と称したのが始まりといわれている。

 当初、真言宗の寺であったが、鎌倉時代初め、法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ念仏寺と呼ばれるようになった。本堂は、正徳二年(一七一二)黒田如水の外孫寂道が再建したといわれている。堂内には本尊の阿弥陀如来座像を安置し、境内には十三重石塔を中心に八千基をこえる石仏石塔が立てられ、賽の河原を現出している。

 「千灯供養」は、地蔵盆の夕刻より営まれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄土具現の感があり、多くの参詣がある。石仏や石塔が、肩をよせ合う姿は空也上人の『地蔵和讃』に「これはこの世の事ならず 死出の山路のすそのなる さいの河原の物語・・・かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向(廻向)の塔を組む(積む) 一重組ん(積ん)では父の為二重組ん(積ん)では母の為・・・」とあるように、嬰児(みどりご)が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を想わせる事から西院(さい)の河原というそうだ。

 あだし野は「化野」と記す。「あだし」とは、はかない、むなしいとの意で、また「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往生する願いなどを意図しているそうだ。この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後生土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。


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2006年08月20日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十七)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十七)

◆◇◆素朴で雄大な「火のまつり」、夏の夜空を焦がす「松上げ」

 「松上げ」は、全国的に分布する柱松行事(精霊供養のための行事、全国にはさまざまな形態の柱松行事が残っている)の一形態とされ、京都市内では洛北の花背(はなせ)、広河原(ひろがわら)、久多(くた)、雲ケ畑(くもがはた)の山村(旧若狭街道沿いの集落)(※注1)に古くから伝わる愛宕信仰(※注2)の祭りで、秋の収穫を前に行われる、素朴で雄大な「火祭り」である。

 火の神様である愛宕山(愛宕明神)への献火行事として、火災予防、五穀豊穣、林業振興祈願のため、同時に先祖の供養と盆の精霊送りも兼ねて行われ、山里の人々総出の催しである(愛宕信仰による献火の行事だが、長い年月の間にいつしかお盆の送り火とも接合して、山里の夏の終りを飾る火祭りとなって定着した)。地区の松上げが終わると実りの秋ももうすぐだ。

 花背(はなせ)、広河原(ひろがわら)の松上げは、灯籠木場(とろぎば)と呼ばれる河原の一角に、小さな松明を竹にさして立てた多数(約千~千五百本)の地松を一斉に点火し、威勢のいい掛け声とともに、鉦や太鼓が鳴るなか、直立させた高さ約二十メートルの灯籠木場(とろぎ・檜丸太)の先端にとりつけた大笠めがけて下から上げ松といわれる火をつけた手松明を投げ上げ、点火させるという壮観な火の行事だ。

 松上げの後、「ヤッサコサイ」とヤッサ踊りや江州音頭を踊る。久多(くた)宮の町に伝わる松上げも同じく約十メートルの高さの柱松に手松明を投げ上げるもので、地元では「チャチャンコ」と称し、地蔵盆の行事として行われている。

 雲ケ畑(くもがはた・加茂川の源流で知られる林業の集落)の松上げは、雲ケ畑出谷町と中畑町の二か所で行われ、花背や広河原、久多の松上げの形態とは異なり、百束余の真割木の松明を文字の形をした三メートル四方の櫓にくくりつけ点火するもので、その文字は毎年異なり、点火されるまで秘密にされている。

 火にかかわる祭りは、霜月から小正月にかけて行われる「冬の祭り」(ドンド焼き・左義長など)と、盆行事にかけて行われる「夏の祭り」(迎え火・送り火など)に、大きく分けられる。火は古来から神聖なものとして取り扱われてきており、火に対する畏怖の念は信仰の対象として、さまざまな祭祀祭礼に大きな影響を与えてきた。

 京都に残る火祭りにおいても、さまざまな形のものが現在受け継がれている。「広河原松上げ」以外にも、例えば、「大文字五山送り火」「鞍馬火祭」「岩倉火祭」などがある。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)小浜を起点として、南川を遡上して名田庄村に入り、周山街道の京都府京北町、美山町を経て、愛宕神社へと「松上げの道」がみられる。さらにこの道は、奈良東大寺に至るといわれている。

(※注2)京都の「松上げ」は、火の守護神として知られる、京の都・洛西の愛宕神社信仰の祈りが込められた行事だ。火は人の生活に大切な関わりをもつとともに、火の恐ろしさも知っており、火の神秘は限りない人々の心に敬虔な祈りを生んだ。火の守護神・愛宕信仰は人々の生活の中で次第に広まる。


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2006年08月18日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十六)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十六)

◆◇◆地蔵盆(地蔵盆会)と地蔵(お地蔵さま)

 お盆は亡き人やご先祖さまの霊を弔う夏の行事だが、このお盆の行事で特に子どもたちが主人公となるお盆を「地蔵盆」という。地蔵盆の「地蔵(お地蔵さま)」(※注1)とは「地蔵菩薩」(※注2)のことである。「地蔵菩薩」は釈迦入減後、未来に弥勒菩薩(みろくぼさつ)が現れるまでの間、すべてのものに救いの手を差し伸べてくれる仏さまとされている(※注3)。

 特に子供の守り仏として篤い信仰を集め、そのため、八月の「地蔵(お地蔵さま)」の縁日(二十四日)前後には、お盆の行事と「地蔵(お地蔵さま)」のご縁日とが一緒になって、地蔵盆が行われる。

 「地蔵(お地蔵さま)」を祀るお堂や祠は提灯で飾り立てられ、子供たちが主役となって念仏を唱えての数珠回しや、福引、映画の上映や盆踊りなど、町ごとに趣向をこらした行事が行われ、子供も大人も共に夏の終わりを楽しむ。

 京都では、八月二十三、二十四日には各町内の辻々に祀られている石地蔵に子供達が集まり、灯明・供物を供えてお祭りする。また、京都では、六地蔵巡り(※注4)を行うのもこの日で、洛外六ヶ所にある地蔵尊の六地蔵詣でが行われ、各地蔵をめぐっては地蔵幡をもらい、これを戸口にさげて疫病を祓うという。京都化野念仏寺の千灯供養なども、この地蔵盆の行事の一環である。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)「地蔵」は「地」の菩薩のことである。ところが、平安末期、末法思想のなか「地蔵」はあの世とこの世の境界で衆生を助ける菩薩として信仰された。あの世とこの世の境界にある不安定な子どもの魂は、「子守地蔵」や「延命地蔵」によって守られると理解されていた。

 応仁の乱後、都の再生、条坊街路内部が宅地化され路地ごとに地蔵が置かれる。とくに長屋では共同便所・共同井戸であり、体力のない子どもの病死が後をたたなかったようだ。狭い長屋での共同生活では、子どもの死を契機に地蔵が共同での供養のために祀られた。

 次第に、亡き子の供養の地蔵が、子ども守護、町内安全の地蔵となっていく。地蔵祭祀は京都に始まり大阪に広まり、近畿全域にまで拡大した。今日、全国各地で地蔵盆の行事が行われるようになる。

(※注2)地蔵菩薩(お地蔵さま)は、過去に釈迦が入滅した後から、未来に弥勒菩薩が現れるまでの間の今世において、人間界のみならず地獄・餓鬼・修羅・畜生・天といった六道の全てに赴き、人々を救済する存在とされている。六道に合わせて六地蔵もよく道端などに作られている。

(※注3)幼くしてこの世を去った子供たちが賽の河原に集まって、父母を偲んで河原に石を積んでいると、地獄の鬼たちがやってきてそれを壊し迫害を加えるという。この哀れな子供たちを救ってくれたのが地蔵尊で、地蔵は子供たちの守り本尊とされている。

 このように、地蔵(お地蔵さま)は子供の守り神であり、賽の河原で苦しんでいる子供達の霊を慰めるものとして、『地蔵和讃』にも歌われている。「一重組んでは父のため 二重組んでは母のため(中略)その時能化の地蔵尊(中略)幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き」

(※注4)八月二十三、二十四日の両日、市内六つの地蔵を巡る行事が六地蔵巡りである。六つの地蔵がある場所は、山科、伏見、鳥羽、鞍馬口、桂、常盤と、いずれも洛中と洛外を結ぶ街道の出入り口にあたるところに祀られている。

 現在では貸切バスで巡るが、かつては朝早くから夜までかけて巡ったという。家内安全、厄病退散を祈り、各寺の赤、青、黄、緑、黒、白色のお札を授与してもらい、祇園祭りの厄除けちまきとともに、玄関先に吊るす。


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2006年08月17日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十五)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十五)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「踊るあほうに見るあほう・・・阿波踊り」

 八月十二日午後六時、徳島市の八か所の演舞場で、阿波踊り(八月十二日~十五日)が行われる。演舞場では「連(れん)」と呼ばれる踊りグループが鉦(かね)や太鼓、三味線の「よしこの」囃子に合わせ、鳥追い笠にピンクのけだし姿の華麗な「女踊り」、ねじり鉢巻きに法被姿で機敏な動きの「男踊り」をにぎやかに繰り出し、市街地は「踊るあほう」と「見るあほう」の熱気に包まれ、踊り一色に染まる。

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、盛大な踊る祭り、徳島の「阿波踊り」

 八月十二日から十五日までのお盆の時期に、徳島市で行われる恒例の踊る祭りが「阿波踊り」である。徳島県には古くから盆踊りが伝承されており、江戸後期には、盆踊りをもとに集団を組んで三味線・太鼓・締太鼓・拍子木・尺八などで囃しながら仮装し、町中を踊り歩く組み踊りが流行していた。

 行進しながら踊り歩く自由な振りの踊りで、藍の取引で豊かになった商人たちが支えたといわれている。現在の連(れん)ごとに踊り進む阿波踊りの原型であったと考えられている。

 「阿波踊り」という名称は古いものではなく、大正末頃に観光協会が発足し、観光客誘致のため芸妓に踊らせた盆踊りを「阿波踊り」と名付けたという。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」と囃し踊るところから、阿呆踊り・馬鹿踊りとも呼ばれていた。

 「阿波踊り」の起源の説明によれば、阿波藩のもとを築いた蜂須賀家政の徳島築城を祝って領民たちが浮かれ踊ったのが始まりだという。現在の「阿波踊り」は、大正期に流行った「よしこの節」の節で、「阿波の殿様蜂須賀公が、今に残せし盆踊り、踊り踊らば品良く踊れ、品の良い娘を嫁に取る、歌え歌えとせいたてられて、歌いかねますひよこ鳥」の歌詞などがうたわれている(※注1)。

 明治期は「はいや節」で歌われていたという。現在の踊りには踊り子連ごとに、大人数で手を上に足で調子をとる乱舞風行進型の「ぞめき踊り」と、三味線などを伴奏に少人数で流しながら踊る昔ながらの流しがあるが、特設の桟敷の前ではほとんど「ぞめき踊り」となっている。流しも芸妓たちによって十五日の朝踊られている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)阿波踊りの起源は、諸説ある。一五八七年、蜂須賀家政が徳島城を築き、その落成祝いに町人たちに無礼講が許され、酒に酔った人々が踊りながら城内になだれこんだという説。一五七八年、大名三好家の武士団を束ねていた十河存保(そごう・まさやす)が、上方から招いて踊らせた「風流踊り」にはじまるという説。盆の時期に精霊を迎えて踊った精霊踊りがはじまりだという説などである。

 いずれにしてもその歴史は古く、四百年以上前から伝わっていたことは間違いないようだ。踊りは両手をあげてリズムをとり、三味線や太鼓、横笛や鉦(かね)などの鳴り物に合わせて、テンポよく足を運ぶ。基本的に踊り方は自由だが、地元の有名連による踊りは、ただの乱舞の域を超え、手の振り、足の運び方、腰の落とし方などに熟練の美を感じる。


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2006年08月15日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十四)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十四)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、お盆の踊り「盆踊り」

 今は娯楽行事(あるいは観光用の行事?)となっている盆踊りも元々は、盆に返ってきた祖先の霊を迎え慰め、そして返すための行事(※注1)であった。元来は縦に列をなして踊る形であったようだが、現在では輪になって踊る輪踊りも盛んである。輪踊りの場合は中心は精霊棚であったのであろう、現在は太鼓(あるいはスピーカー?)の載った櫓だったりする(※注2)。

 現在もお盆の時期は故郷への帰省ラッシュの時期である。現在よりも休みの少なかった時代、盆には奉公人が休みをとって実家に帰ることが出来る時期で、これを「藪入り」と称した。この時期はまた、他家に嫁いだ女性が実家に戻ることの出来る時期でもあり、自分と自分の家(先祖、ルーツ・・・)の繋がりを確認する時期だったようである。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)盆踊りを踊る目的については、大きく分けて四つあるとされている。

 (1)尊い神(祖霊神など)の来訪を意味する踊りで、若者などの扮した翁(おきな)・嫗(おうな)の二神が多くの随神とともに賑やかに家々を訪れ祝福して歩く、沖縄八重山地方のアンガマなどがある。沖縄県には豊年の祝意を込めた踊りもあり、沖縄以外にもこのような祝儀的性格の盆踊りがいくらか見られる。

 (2)先祖霊(祖先霊)を迎え慰めるための踊りで、これが最も多いようだ。主たる対象は、前年のお盆以降に亡くなった地域内の人々の霊である。

 (3)疫神などの祟り神を地域外へ鎮送することを目的とした踊りで、御霊信仰を背景にした盆踊りといえる。長野県下伊那地方の新野では、盆踊りの最後に新盆宅(初盆家)の切子灯篭を先頭にして皆で地域境まで練り行き、踊り神送りなどと称し、そこで切子灯篭を燃やし鉄砲の音させて後ろを振り返らずに戻ってきたという。

 (4)娯楽目的の盆踊りである。信仰的要素や娯楽性はすべての盆踊りにあるが、着飾って男女が賑やかに歌い踊る、娯楽性を強調したものだ。地域以外の多くの人びとも参加する各地の有名な盆踊り(阿波踊りなど)や、近年流行の町内会・自治会主催の夏祭りを兼ねた民謡踊り的な盆踊りは、もっぱら楽しみを目的としたものである。

(※注2)長年にわたって地域の行事の一つとして継承されてきた盆踊りでもっとも一般的なのは、先祖供養、特に前年の盆以降の新仏を地域の人びとが皆で供養しようとするものである。死後間もない霊はまだ浄化を遂げていないとされ、祟りやすいと考えられている。そのため、新盆宅(初盆家)の盆行事は地域の共同祭祀的色彩の濃いのが特徴だ。盆踊りもそうした共同供養の一つとして行われる。

 と同時に、踊るさまは、新仏が盆に戻ってきて踊る姿を表現しているとの解釈もあります。静岡県西部の遠州大念仏は多分に芸能化していますが、十数人ないしは数十人からなる念仏集団が独特の衣装で道行囃子を奏しつつ、次々に新盆宅(初盆家)を訪れ、その家の新仏を弔ったあと庭先で太鼓・笛などに合わせて激しく踊り、その合間に双盤の音が哀しく響く。

 この他にも、高知県土佐清水市の川口や大津のような、広場に精霊棚を設け、そこに新盆宅(初盆家)の位牌などを並べて踊り続ける所がある。また、鳥取県岩美町陸上では、墓踊りと称し、まず寺の境内で踊り始めてから墓地へむかい、新盆宅(初盆家)の墓を取り巻いて踊る所もある。

 このような新仏供養の盆踊りは、中世に流行した踊り念仏の系統をひく念仏踊りだが、次第に風流化し、踊りの場に彩色された大型の灯籠を並べたり、衣装に凝るようになっていった。同時に念仏を唱えるだけでなく、歌詞にも工夫を凝らすようになっていく。


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2006年08月13日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十三)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十三)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「五山の送り火(大文字焼き)」

 八月十六日夜、京都の夏の風物詩であり夏の夜空を彩る「五山の送り火」が、京都市街を取り巻く山々で営まれる。多くの人が、ゆく夏を惜しみながら、送り火に手を合わせる。

 当日の午後八時、大文字山(東山如意ヶ嶽、左京区)の「大」に火が灯され、それに続き「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」のかな文字や図形が、次々と山上に浮かび上がる。漆黒の夜に、オレンジ色の炎の文字がつくり出す幻想的な世界が京の街を包みむ。

 「五山の送り火(大文字焼き)」は、盆に迎えた先祖の霊を見送り、無病息災を祈る精霊送りの伝統行事である。大文字の火が消えると火床から「炭」を取り出そうと多くの人(無病息災を願う人)が殺到するそうだ。(※注1)。

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「精霊流し」

 八月十五日夜、長崎市・佐世保市で、お盆の伝統行事「精霊流し」が営まれる。夕刻から、いくつもの灯篭を飾った精霊船、藁で供物を包んだこも船が運ばれ、慰霊の爆竹のけたたましい音とともに精霊船を担ぎ引く人の流れは夜遅くまで続くそうである。

 長崎の伝統行事「精霊流し」は、この一年亡くなった人の霊を精霊船に乗せて「西方浄土」に送る行事で、県内各地で繰り広げられる。長崎市中心部では、爆竹や鉦(かね)が鳴り響く中、大小さまざまな船が列をなす(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)十四・十五両日は、精霊は家に留まり、十六日の夜、家を去り、元いたところに帰ってゆく。伝統的な日本の霊魂観では、先祖の霊魂は、決してキリスト教で説くような天国や西方十万億土の浄土といった観念的な世界ではなく、われわれの住むこの世界の中に同居して(草場の影から見守って)いるのである。

 自分の子孫の無事安泰を確認(そのために、われわれは先祖の霊魂を接待する)したら、満足した先祖の霊魂を、今度は送り火を焚き、帰り道を照らして、霊を送り出す。これを「送り火」といい、「盆送り」、「送り盆」などとも呼ばれる。

 迎え火、送り火の習俗は江戸時代に盛んになったもので、川や海に灯籠を流す行為「精霊流し」や有名な京都に五山に炎で文字が浮かび上がる「大文字焼き」もまた、盆の送り火の一つである。

(※注2)「精霊流し」は、家々に迎えた先祖の霊を、祀り終わって送り流すお盆の行事である。七月(新暦・旧暦)十五日夕方か十六日に行われる所がほとんどで、稀に二十日過ぎに行う例もあるそうだ。

 先祖の霊(祖霊)は山や墓・寺などから迎えることが多く、川や海から迎える例は僅かである。これに対して送る場合は、迎えたときと同じく門口や墓などに火を焚くほかに、盆棚の材料に用いた竹・真菰(盆茣蓙)や供え団子や茄子・胡瓜で作った牛馬などを辻に納めたり、それらを川や海に流すことによって先祖の霊を送り返そうとしている例が多いようだ。

 迎えてきた時とは異なる場所に送ろうとしているのは、霊の迎え・送りを統一的に捉えようとする観点からは辻褄が合わないが、それは長年にわたる他界観の変遷や重層の結果による矛盾と考えられている。


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2006年08月12日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十二)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十二)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、柳田國男と民俗学

 柳田國男は、若い頃(三十五歳頃)『遠野物語』など民間に伝わる説話を集め始める。その後、貴族院議長徳川家達と衝突して書記官長を辞めて(四十五歳頃)朝日新聞記者となり日本各地を旅行、また国際連盟統治委員としてヨーロッパを旅行する。次いで雑誌『民族』を創刊し(五十歳頃)新しい民俗学の確立に努める。

 やがて「民間伝承の会」を設立(六十歳頃)、全国各地から集積された民俗資料をもとにライフワークともいうべき主著を刊行する『先祖の話』は終戦の年、連日の空襲警報の下で書かれた。戦後(七十歳頃)日本の神、家はどうなるのかを憂えて「民俗学研究所」を設立、民間伝承の会を日本民俗学会に改称して会長となる。晩年(八十歳頃)、「民俗学研究所」を解散した。

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、柳田國男と経歴

 柳田國男(1875~1962):日本民俗学の創始者であり、近代日本の生んだ思想家。明治8年7月31日に兵庫県東郡田原村辻川に生まれる。父、松岡操は儒学者、長兄、鼎は医者、三兄、井上通泰は歌人、次弟、静雄は言語学者、末弟、映丘は日本画家として名をなしている。

 1887年に上京して森鴎外宅に出入りするようになり、文学活動に入り『文学界』に詩作を発表するようになった。東京帝国大学法学科大学卒業後、農商務省農政課に入り、農政官僚の道を進み、当時の農政学に関心を抱くようになる。

 1901年(明治34年)柳田家の養嗣子となり、その後法政局参事官に転出した。その間土曜会、竜土会、イプセン会などで文学活動を続け、田山花袋、蒲原有明、小山内薫、島崎藤村らと知り合う。

 1908年九州旅行で宮崎県椎葉村を訪れ、山民の実態にふれたのが契機となり『後狩詞記』をまとめた。さらに1910年に『遠野物語』と『石神問答』を刊行し、日本民俗学の基礎を築いた。

 その後、柳田の関心は郷土研究に置かれ、新渡戸稲造、小田内通敏、松本蒸治らと郷土会を組織し、1913年(大正2年)に雑誌『郷土研究』の刊行を開始した。1919年貴族院書記官長の要職を辞したのち、朝日新聞社客員となり、全国各地への旅行を続け、沖縄へも初めて訪れ、民俗学飛躍のきっかけをつかんでいる。

 1922年、国際連盟委任統治委員に任命され、ジュネーブに赴いた。帰国後、『朝日新聞』論説員として活躍する一方、『海南小記』『明治大正史世相篇』『都市と農村』などを刊行した。昭和十年代にかけて民俗学の理論化を行い、『民間伝承論』(1934)、『郷土生活の研究法』(1935)、『国史と民俗学』(1936)を相次いでまとめている。

 とくに民族資料の収集、分類の基準を説くとともに、民俗のなかの心意伝承を重要な領域に設定したことが大きな特色となっている。1933年(昭和8年)九月以来、民俗学研究の中心となった木曜会を組織した。木曜会は第二次世界大戦後の民俗学研究所の活動に引き継がれた。木曜会において、その後成長した日本民俗学者たちの数多くが柳田の教えを受けた。

 1935年に還暦を迎えた柳田を祝う目的で日本民俗学講習会が開催され、これを契機として、民間伝承の会が発足し、機関誌『民間伝承』が刊行され、全国各地の研究者を組織化する第一歩が始まっている。柳田は全国各地を旅行した際、現地で同じ関心を持つ同学の士と会い民俗学の普及に努める一方、木曜会のメンバーを中心として全国的な民俗調査を実施し、山村、海村、離島の報告書をまとめている。

 柳田は第二次大戦中から、しだいに日本人の基層信仰に焦点を定め、1945年7月に『先祖の話』を完成し、なお『新国学談』三部作に取り組んだ。そこには祭りや氏神、祖先崇拝、民間信仰を研究することによって、民俗学を経世済民の学として位置付けようとする気概が読み取れる。

 戦後、柳田は民俗学を学校教育に取り入れることを積極的にすすめた。そして1949年(昭和24年)に民間伝承の会は日本民俗学会と改称され、柳田は初代会長となった。戦後の柳田の思想の軌跡は、日本民族と稲作の伝来のルーツをつなげる『海上の道』であり、死の一年前にその構想が大著となって公刊されている。

 柳田の半生は、終始一貫、民俗学を通して日本人の人生観、世界観を探ることにあり、その業績は日本研究の根幹に関わるものとして高く評価されている。(日本大百科全書より)


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2006年08月11日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十一)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十一)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、柳田國男の霊魂観『先祖の話』

 「柳田國男がライフワークともいうべき『先祖の話』(全集文庫版の第十三巻)を執筆したのは、空襲警報の下だった。昭和二十年の五月から敗戦後の秋にかけてである。柳田の慧眼は、いまの“靖国”をめぐる混乱を鋭く見抜いていたというほかない。

 『先祖の話』は、日本人の古来の霊魂観や死生観を取り上げこう書いていた。〝少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒のいう無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけには行くまいと思う〟。敗戦濃厚となった日々、国難に殉じた人びとのタママツリ(魂祭り)に強い危機感をおぼえたのだろう。

 柳田は、国ごとに常識の歴史というものがあるといい、民族の年久しい慣習を無視しては英霊は安んじて眠ることはできないと心底憂えていた。(中略)〝人は死ねば子や孫の供養や祀りを受けて祖霊に昇華し、故郷の村里をのぞむ山の高みに宿って、人や家や国の幸福や繁栄を見守る〟というのが柳田の霊魂観だった。」

産経新聞の産経抄(平成十四年八月十五日)より抜粋

 民俗学の父・柳田國男(※注1)は、敗戦が色濃くなった昭和二十年五月から、日本の行く末を心配し、『先祖の話』(※注2)を一気に書きあげたそうだ。先祖を大切にする心があれば、戦後の混乱にも、けっして日本人であることを失うことはないと考えたのであろう。

 そのためには先祖のことを書いておかなければならない、という思いが遺言のように込められているようだ(※注3)(柳田國男は、戦争に敗北後、日本がアメリカの統治下に入ることを予期して、日本人の自己認識(アイデンティティ)を保持しておこうと考えたためと言われいる)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)日本全国の古来の様々な風習、伝統といったものが日本の近代化によって急速に消滅していくなか、柳田國男が切り開いた民俗学は、忘れかけていた伝統的な日本のよさと祖先たちに代表される日本と日本人の本質(古きよき日本を理解する上で極めて重要かつ多様な問題)を甦らせる。

 柳田の半生は、終始一貫、民俗学を通して日本人の人生観、死生観、世界観、宇宙観を探ることにあった。彼の作品に綿々とそのことが綴られている。柳田の業績は日本研究(日本学)の根幹に関わるものとして高く評価されている。

(※注2)柳田國男は、第二次大戦中から、次第に日本人の基層信仰に焦点を定め、昭和二十年(一九四五年)七月に『先祖の話』を完成し、なお『新国学談』三部作に取り組んだ。そこには祭りや氏神、祖先崇拝、民間信仰を研究することによって、民俗学を経世済民の学として位置付けようとする気概が読み取れる。

(※注3)柳田國男は『先祖の話』のなかで、死者が「帰る山」について、次のように語っている。「無難に一生を経過した人々の行き処は、是よりももっと静かで清らかで、此世の常のざわめきから遠ざかり、且つ具體的にあのあたりと、大よそ望み見られるやうな場所でなければならなぬ」。

 かつて私たちは、確かな死後の世界を持っていた。それは、「人は死ぬと山へ帰る」と。だから「いずれは私もあのお山へ帰っていくのだ」と、村の周囲にひときわ秀でたそのお山を崇拝したのである。現代人は死のイメージを持たなくなったようだ。生も死も本来は自然のものだ。

 ところが生命科学の発達とともに、驚異的な勢いで人手に移ってしまった。生死は儀式であり祭りであり、他界への出入り口であったのである。その豊穣なイメージを喪失したところに、私たち現代人の“生の不安”の根源がある。


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2006年08月10日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、日本人の先祖観と先祖祭り

 民俗学を創始した柳田國男によると、「先祖の霊は神となって、子孫のために作物が豊かに稔ることを見守ってくれる。だから、作物が取れたら、それを供物として祖霊神に捧げ、共に喜びを分かち合って、これを共食し、新しい年の豊穣を祈る。豊穣を祈る祭りは、そのまま祖霊を祀ることになる」と説明している。

 日本人は、食物が新たに稔るのを祈る事と、神や祖霊を迎え、共に過ごすことを、一心同体として、年中行事や祭礼の中に伝承してきたといえる(※注1)。また、十五日は、太陰暦の時代はこの日は満月であり、昔は明るい夜を提供してくれる満月の夜に様々な祭りが催されていたのである。「お盆」もそうした古い祭りの一つなのかもしれない(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)民俗学からみた日本人の霊魂観によると、人が亡くなった後の魂は三つの段階を辿るそうだ。(1)死霊と荒魂、(2)祖霊と和魂、(3)神霊と氏神の三段階です。

 (1)死霊と荒魂については、人がなくなるとその魂は、不安定な「死霊」となって家の付近を彷徨うと信じられている。ときには生きている人に害を及ぼすこともあるので、荒々しい魂という意味の「荒魂」とも呼ばれる。そこで家の人は死霊を大切に鎮める必要があり、仏教の追善供養や神道の鎮魂・慰霊祭が営まれる。死霊(荒魂)は、大切にお祀りをしてもらうと、その家のわざわいを除き、幸福をもたらしてくれる除災招福の力がある、と信じられている。

 (2)祖霊と和魂については、ほとんどの家では、追善供養を仏教で行う。最初が「四十九日」で、七日ごとに七回お寺に法要をしてもらいう。次が百日目、あとは一周忌、三回忌、十三回忌という風に、すこしずつ間をあけながら仏壇やお墓で供養する。こうして死霊は、年月とともに荒々しさも消え、安定し、やがてなごやかな魂という意味の「和魂」とよばれる家の祖霊となって行く。祖霊は家族や子孫に災いや害を及ぼすこともなくなり、むしろ繁栄と恩恵をもたらすと考えられている。

 (3)神霊と氏神については、家族の供養をうけて三十年ほどすると、祖霊は血縁の家を離れ、個性を持たない霊になると信じられた。祖霊は、同じ地域(地縁)の神様の仲間に入るので「神霊」とよばれる。これが村の「氏神様」である。鎮守の森(神社)では、村中で氏神様をお祀する。氏神様は村全体の繁栄、とくに農業が中心だったころは豊作(五穀豊穣)をもたらし、人びとの安全や願いを叶える一方で、人々の生き方によって天災をもたらす、恐ろしい一面もある。ちなみに三十三回忌または五十回忌が終わると家の供養から完全に離れるので、「弔い切り(問い切り)」といって、戒名を書いた位牌を処分し、お墓を倒す「墓だおし」を行うところもあるそうだ。

(※注2)「日本では祭というたった一つの行事を透して(通して)でないと、国の固有の信仰の古い姿と、それが変遷して今ある状態にまで改まってきている実情は、窺い知ることができない。その理由は、諸君ならば定めて容易に認められるであろう。現在宗教といわるるいくつかの信仰組織、たとえば仏教や基督教と比べてみてもすぐに心づくが、我々の信仰には経典というものがない。(中略)説教者という者はなく、少なくとも平日すなわち祭でない日の伝道ということはなかった。以前は、専門の神職というものは存在せず、ましてや彼等の教団組織などはなかった。(中略)その教えはもっぱら行為と感覚とをもって伝達せらるべきもので、常の日・常の席ではこれを口にすることを憚られていた。すなわち年に何度かの祭に参加した者だけが、次々にその体験を新たにすべきものであった。温帯の国々においては、四季の循環ということが、まことに都合のよい記憶の支柱であった。」(『柳田國男全集十三』ちくま文庫「祭から祭礼へ」)。


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2006年08月09日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(九)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(九)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、日本人の宗教観、農耕民族と農耕儀礼

 日本は農耕民族であり、生業儀礼=農耕儀礼となっていることが多いようである。農耕儀礼は、世界的にみて復活と豊饒の儀礼だ。農業儀礼の特徴として、収穫サイクルがきっちり一年であることがあげられる。しかも、年中行事という形で、農業のサイクルに応じて多数の農耕儀礼が現在も残っている。

 日本の場合、さらに農耕儀礼=稲作儀礼になっていることが多いようである。小正月の予祝儀礼(※注1)のほか、田植え近くには田の神を祀る行事があり、水口祭(種まきのときの祭り)とか社日(春分・秋分の日に最も近い戊の日のこと、春秋の神の去来をみる日)、田の神降りなどが行われ、植物が育つ夏には病虫害を防ぐ虫送り、人形送りなどが行わる。

 ところが、七夕とお月見は、稲作儀礼ではなく、畑作儀礼出身の行事のようである。稲作の収穫儀礼は十月十日頃(旧暦)に行われる刈り上げ祭りというものらしいだが、お月見に比べ一般的ではない。

 中秋の名月は八月十五日(旧暦)の月のことで、芋名月と呼んで畑で取れた作物を月に供える。九月十三日(旧暦)の栗名月(豆名月)には栗などを供える。中秋の名月は里芋の収穫祭と考えられているが、九月十三日の十三夜(後の月、栗名月、豆名月、女名月とも呼ばれて、十三夜の風習は中国にはなく、日本独自のものである)も、民間では収穫祭が行われる。

 日本の農耕関連の儀礼は正月ではなく、旧暦一月十五日の小正月に集中している(※注2)。十五日(望月)は、太陰暦では満月であり、農耕儀礼が多く行われる。暦の上で正月と対になるのは、通常お盆と考えられていますが、大陸の方では中秋である。

 どちらも旧暦十五日、満月の日である。月見については、いまでは中秋のものだけが特別扱いされるだけだが、もともとは毎月の満月が特別な節目(祭り、ハレ)で、民衆にとっては、毎月の中心は満月の夜であったのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)予祝儀礼とは、年初などに神霊に豊かな収穫を祈願するものである。小正月に、麦の畝を三列作って松を立てて拝む、麦団子を作って食べる麦正月などが知られていた。また九州など南方では里芋を神棚に供えるなど、里芋の儀礼が多く伝わっている。これら農業関連の予祝儀礼は、元旦ではなく、満月にあたる小正月に多いのが特徴である。

 この予祝儀礼に対応する、秋の収穫儀礼が盆と中秋の名月にあたる。いずれも満月の日だ。旧暦八月十五日は米の収穫にはちょっと早いようだが、もともと南方の里芋の収穫儀礼の日時である、という大林太良氏らの有名な説が最近は主流となってきている。

 稲作の収穫儀礼は十月十日前後の刈り上げ祭が祭りらしいのだが、畑作の収穫儀礼である中秋の名月や盆に比べるとどうも一般的ではない。

(※注2)朔正月を大正月というのに対して、十五日正月を小正月という。大正月が公式の儀礼ばった行事が多いのに対し、小正月は生活に即した行事が多いようだ。昔の生活は、月明かりを利用することが多かったからか、闇夜の大正月より望(もち=満月)の小正月の方が親しみやすく、大昔の生活の上ではむしろ小正月が年の境目であったのではないかともいわれている。

 小正月に行われる行事は、削りかけ、成らせ餅などのモノツクリ、農耕を模して豊作を予祝する庭田植え・成り木責め・鳥追いのほかに、小豆粥を食べ、夜はナマハゲなどの異様な訪問者があったり、これらはすべて農耕儀礼と見ることができ、年占や呪術的な要素が強いことが注目される。


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2006年08月08日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(八)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(八)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、日本人の固有の宗教観や霊魂観

 お盆行事(祭り)には、三つの要素があるといわれている。それは、祖霊の祭り(死者祭祀)、豊穣の祭り(穀霊祭祀)、魂の祭り(生命の更新)である。この三つの要素が繋がりあるものとして受け取られてきたのが、日本人の古くからお盆行事(祭り)に対する考え方だったとされている(※注1)。

 そして、「盆と正月が、一緒に来る」と言う言葉がある様に、年の始まりには、二つあり、一つは稲作を中心としたもので、正月を年の初めとするものだ。歳神を迎えて米などの穀物を捧げ、新年の豊穣を祈る。

 もう一つは、蕎麦や芋などの畑作を中心としたもので、旧暦七月のお盆の時期が、二つ目の年の初めとも考えられてきたといわれている。このことから、昔は、一年を二つに分けて考えていたようなのである(※注2)。

 今でも、お盆には、喬麦や芋を供物として捧げる民俗が伝承されており、「お盆」を芋正月いう地方もある。この二つの豊穣を祈る祭りと、祖霊を迎え祀る祭りが、複合されたと考えられている。豊穣をもたらす神は、すなわち祖霊でもあったのだ。これらは、なぜ一体のものとして考えられたのであろうか。

 先祖の霊は神となって、子孫のために作物が豊かに稔ることを見守ってくれる。そのことから、作物が取れたら、それを供物として祖霊神に捧げ、共に喜びを分かち合って、これを共食し、新しい年の豊穣を祈るのである。豊穣を祈る祭りは、そのまま祖霊を祀ることになるというのが、一番分かりやすい解釈だ。

 食物が新たに稔るのを祈ることと、神や祖霊を迎え、共に過ごすことを、一つのことのように過ごしてきた昔の人々の姿が、年中の祭礼の中に生きてきたのである。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)農耕民族である我が国において、正月と盆の行事は、年中行事の中で最も重要なものである。正月は歳神(トシガミ)の来臨を願いこれを祀り、一年の農耕生活の安泰を祈ろうとすることと、一年の行事を儀礼化して演出し、類感呪術・模倣呪術によって豫期の収穫を得ようとする行事や、年穀や天候の吉凶を占う行事を中心にして、種々の呪術宗教的な要素を以て構成されている。歳神のトシは時間の区切りとしての「年」であるとともに年穀の稔(トシ)でもあり、したがってこの神は穀物霊、ことに稲霊から発達した農耕神と考えられている。

 すなわち、秋の収穫が終わって次の蒔種期に至る中間、そして太陽が南行の極みに達して北行に変わろうとする境目において、穀霊の活力の復活を祈り、豊かな稔りを期待する呪術的・祈祷的な儀礼行事として始まったものと考えられる。しかし他面、この神をミタマサマといい、供飯をミタマノメシと呼び、さらには「佛の年越」「先祖正月」として家の先祖の霊を迎え祀るところの多いのを見ると、この神は先祖霊としての性格も持っており、七月の盆行事に対する祖霊祭祀としての色彩も濃いようだ。

(※注2)お盆は、七月十五日(旧暦)を中心に営まれるが、太陽暦採用後は、八月十五日を中心にする地域が多く、元来は七月の行事であったのである。お正月の行事は、大晦日から元旦を中心に営まれるものと、十四日夜から十五日にかけてを中心にするものと、二つに分けることができる。前者は、一般に大正月、後者は小正月と呼ばれていた。お盆は、期日の上では小正月と対応している。即ち、ともに十五日を中心にし、元旦と釜蓋朔日、七日正月と七夕、御斎日(一月十六日と七月十六日)、二十日正月と裏盆というよう対応している。

 このことから、日本の年中行事は、かつては一年を単位とするのではなく、一年の前半の行事を後半の七月から十二月までもう一度繰り返す構成を取っていたのではないかと考えられている。また、六月と十二月の晦日(みそか)には、天下万民の罪や穢れを祓う大祓が恒例となっている。旧暦の六月の晦日には、夏越の祓というのもあるのだが、半年をはさんで類似の行事が多いのは、古くは、夏至と冬至で一年を二分する考え方(陰陽でいえば隠遁と陽遁)が強かったからだと思われる。


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2006年08月07日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(七)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(七)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「盆と正月」日本の二大年中行事

 「お盆」は、仏教固有の行事のように考えられがちだが、そうではない。ここに、日本人の不思議さと日本文化の独自性があるような気がする。「お盆」は、正月行事などと同じように、日本人の固有の宗教観や霊魂観と、仏教でいう供養の概念が融合して、「お盆」といわれる行事になったとされている。

 また供え物を載せる容器を、かつては盆といったことから、この行事を「盆」というようになったとの説もある(盂蘭盆会から来ているとの説もあるが…)。いずれにしても、「お盆」は、日本人にとっては、「お正月」と同様に、祖霊の御霊を祀る大切な行事として、受容してきたのだ(※注1)。

 日本人は昔から、お正月やお盆に、先祖の祖霊を迎えて供養するために、色々な慣習や儀礼を伝承してきた。そうした習慣や儀礼は、意識しなくとも今の私たちの生活に深く溶け込んでいる。なにげなく、習慣として受け入れられている「お盆」には、どのような意味があるのかを考えることは(考察することは)、日本と日本人の基層(日本学)を知る上で大変重要なことである。

 お盆の行事も、正月行事同様、地域ごとに違いがあるが、本来の意味においては大きな違いはない。「お盆」は、祖霊がお盆の期間だけ家に帰って家族共々過ごし、再びあの世に旅立つまでの間の行事(祭り)という意味においては…(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)「盆と正月が一緒に来たよう」という言葉があるが、まさにお盆とお正月は日本の年中行事の双璧をなす重要行事である。お正月は、室内外に注連飾りをしたり神社に参拝するというように神道的色彩の濃い行事である。しかし、お盆は、仏壇に供え物したり墓や寺に参る仏教色の強い行事とみなされている。

 しかし、この二つの行事には以外に類似する点の多いことに気付かされる。そして、実は双子の様な行事なのだ。古い正月は一月十五日である。そしてお盆は半年後の七月十五日(旧暦)だ。ちょうど半年を隔てた日付で、行事の内容も大変類似したものが多く存在する。

 例えば、門松と盆花、正月の灯明と盆の迎え火、七日正月と七夕、どんど焼きと送り火、追儺・節分と茅(ち)の輪くぐり、盆のお供えとお節料理などなど…。このようにお盆とお正月の類似から、古代には、年の初めの行事が二回あったことが窺える。すなわち春の初めの満月の夜と秋の初めの満月の夜に、祖霊が来臨し、人々は、その年の豊穣を祈っていたと考えられるのだ。

 二度ある祖霊祭り・魂祭りの区別をするため、夏の場合、先祖に供える供物を載せる器の盆をそのまま行事の名として用いられたともいう。現在では盆は仏教色が強く、正月は神道色の強い行事となっているが、これは仏教が広がって以後のことで、昔はどちらも先祖の霊を祀る大切な行事であった。今でも正月に墓参りをする地方は多くある。

(※注2)大晦日(おおみそか・おおつごもり)には、近くの神社で年越しの大祓があり、毎年、茅の輪(ちのわ)くぐりをして半年間のお祓いをする。同じように、旧暦の六月の晦日には、「夏越の祓(なごしのはらえ)」というのもあるのだが、半年をはさんで類似の行事が多いのは、古くは、夏至と冬至で一年を二分する考え方(陰陽でいえば隠遁と陽遁)が強かったからだと思う。

 同じことが、正月についてもいえる。よく「盆と正月が一緒に来た」などといわれるように、お盆もお正月も「魂祭り(みたままつり)」がもともとの起源のようだ。お正月は、歳神を迎える行事だが、歳神とは、祖霊のことである。お年玉なども、もとは年魂(としだま)といって、歳神が新しい生命力(魂)を授けてくれることであった。

 冬至から次第に昼が長くなってくること、また再び春を迎えられることに生命力の復活を感じ、感謝する節目がお正月の時季なのである。お盆の迎え火・送り火に対して、お正月はどんど焼き(左義長)などの火祭りがある。


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2006年08月06日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(六)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(六)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、さまざまな「お盆」行事

 民間における「お盆」の行事として例えば、「盆竈(ぼんがま)」(※注1)「迎え火」「送り火」(※注2)「精霊棚」「盆棚」(※注3)「精霊流し」(※注4)「送り火」「盆踊り」(※注5)「盆堤灯」「盆花」なども、先祖の霊魂を迎え、供養する意味が含まれている。

 お盆の墓参りの花には、多くの場合、「ほおずき」の花が入っている。一説では、「ほおずき」は、その形が、堤灯に似ているところから、十三日に、先祖さまを迎える、「御魂(みたま)」の目印の「迎え火」や、その簡素化された形としての盆堤灯の意味があるとされている。お盆のお墓参りの花一輪にも、我々日本人が、受け継いできた伝統や習俗に無関係ではないようだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)盆竈:お盆に、野外に臨時の竈を築いて煮炊きをし、飲食をする行事である。辻飯、門飯、川原飯、餓鬼飯、お夏飯ともいう。期日はお盆の十四日が普通で、十五日にする所もある。外竈を設けて飲食することは、正月小屋や三月小屋と同じく別火生活の名残りとされ、神祭りの資格を得るために、家族から隔離し、清浄を保つための手段であったようだ。多くは女児中心の行事である。「盆のままごと」ともいい、今日の「ままごと」遊びは、外竈の印象を留めたものと考えられている。

(※注2)迎え火と送り火:盆の入り(十三日)の夕方、家の前で火を焚き祖先の霊を迎える。盆の十三日夕方が多いが、お盆の期間中毎日焚く所もある。これが迎え火だ。

 盆明け(十六日)の夕方に火を焚いて祖先の霊を帰す。お盆の終わりの感傷からか、迎え火よりも火にまつわる行事は豊富である。これが送り火だ。盆送り、送り盆などとも呼ばれる。

 迎え火、送り火の習俗は江戸時代に盛んになったもので、川や海に灯籠を流す行為や京都の大文字の送り火もまた、盆の送り火の一つである。

(※注3)精霊棚・盆棚 :お盆の精霊祭りのために家ごとに設けられる臨時の祭壇のことである。お盆の期間中に精霊棚(しょうりょうだな)、先祖棚、盆棚などという棚を作って、位牌、線香、花、野菜や果物、団子などを供える習俗があったそうだ。

 精霊棚は先祖を祀ったものだが、同時に餓鬼棚(がきだな)と呼ばれる無縁仏を供養する棚もあったそうだ。この棚は別に作るところもあり、また精霊棚の下に食べ物を供えるだけのところもあったそうである。

 今と違って昔は行き倒れて亡くなる人も多く、そういった祀られることのない身元のわからない霊魂は人々に様々な災難をもたらす物と畏れられていたことが、餓鬼棚で無縁仏を弔うという習俗を生んだのであろう。

 現在は精霊棚や餓鬼棚などを作るところは少なくなっているが、季節の野菜や果物、団子などを供える(ナスやキュウリで馬を作って供えるのもその変形)などの行為は、まだ多くの地方で行われているようだ。

(※注4)精霊流し:家々に迎えた先祖の霊を、祀り終って送り流すお盆の行事のことである。送り火の一種で、船にしつらえた灯籠を川や海へ流しこの灯籠と一緒に盆に迎えた先祖の霊を送り出す行為が原型だ。九州北部での精霊流しは有名である。場所によっては葦で大型の船を造って流すようなところもある。

 精霊流しの際には、盆の間に供えた野菜や果物などのお供え物も流す。これは祖先の元へ供物を贈るという面と、死の世界と関わった穢れ(けがれ)を水によって清めるという面をもったものであろう。水面に揺れる灯火には、先祖の霊を送り流そうとする気持ちが込められている。

(※注5)盆踊り:今は娯楽行事(あるいは観光用の行事?、阿波踊りなど)となっている盆踊りも元々は、盆に返ってきた祖先の霊を迎え慰め、そして返すための行事であった。

 元来は縦に列をなして踊る形であったようだが、現在では輪になって踊る輪踊りも盛んである。輪踊りの場合は中心は精霊棚であったのであろうが、現在は太鼓の載った櫓だったりする。

(※注)盆と藪入り:現在もお盆の時期は故郷への帰省ラッシュの時期である。現在よりも休みの少なかった時代、盆には奉公人が休みをとって実家に帰ることが出来る時期で、これを「藪入り」と称した。

 この時期はまた、他家に嫁いだ女性が実家に戻ることの出来る時期でもあり、自分と自分の家(先祖、ルーツ・・・)の繋がりを確認する時期だったようだ。


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2006年08月06日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(六)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(六)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、さまざまな「お盆」行事

 民間における「お盆」の行事として例えば、「盆竈(ぼんがま)」(※注1)「迎え火」「送り火」(※注2)「精霊棚」「盆棚」(※注3)「精霊流し」(※注4)「送り火」「盆踊り」(※注5)「盆堤灯」「盆花」なども、先祖の霊魂を迎え、供養する意味が含まれている。

 お盆の墓参りの花には、多くの場合、「ほおずき」の花が入っている。一説では、「ほおずき」は、その形が、堤灯に似ているところから、十三日に、先祖さまを迎える、「御魂(みたま)」の目印の「迎え火」や、その簡素化された形としての盆堤灯の意味があるとされている。お盆のお墓参りの花一輪にも、我々日本人が、受け継いできた伝統や習俗に無関係ではないようだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)盆竈:お盆に、野外に臨時の竈を築いて煮炊きをし、飲食をする行事である。辻飯、門飯、川原飯、餓鬼飯、お夏飯ともいう。期日はお盆の十四日が普通で、十五日にする所もある。外竈を設けて飲食することは、正月小屋や三月小屋と同じく別火生活の名残りとされ、神祭りの資格を得るために、家族から隔離し、清浄を保つための手段であったようだ。多くは女児中心の行事である。「盆のままごと」ともいい、今日の「ままごと」遊びは、外竈の印象を留めたものと考えられている。

(※注2)迎え火と送り火:盆の入り(十三日)の夕方、家の前で火を焚き祖先の霊を迎える。盆の十三日夕方が多いが、お盆の期間中毎日焚く所もある。これが迎え火だ。

 盆明け(十六日)の夕方に火を焚いて祖先の霊を帰す。お盆の終わりの感傷からか、迎え火よりも火にまつわる行事は豊富である。これが送り火だ。盆送り、送り盆などとも呼ばれる。

 迎え火、送り火の習俗は江戸時代に盛んになったもので、川や海に灯籠を流す行為や京都の大文字の送り火もまた、盆の送り火の一つである。

(※注3)精霊棚・盆棚 :お盆の精霊祭りのために家ごとに設けられる臨時の祭壇のことである。お盆の期間中に精霊棚(しょうりょうだな)、先祖棚、盆棚などという棚を作って、位牌、線香、花、野菜や果物、団子などを供える習俗があったそうだ。

 精霊棚は先祖を祀ったものだが、同時に餓鬼棚(がきだな)と呼ばれる無縁仏を供養する棚もあったそうだ。この棚は別に作るところもあり、また精霊棚の下に食べ物を供えるだけのところもあったそうである。

 今と違って昔は行き倒れて亡くなる人も多く、そういった祀られることのない身元のわからない霊魂は人々に様々な災難をもたらす物と畏れられていたことが、餓鬼棚で無縁仏を弔うという習俗を生んだのであろう。

 現在は精霊棚や餓鬼棚などを作るところは少なくなっているが、季節の野菜や果物、団子などを供える(ナスやキュウリで馬を作って供えるのもその変形)などの行為は、まだ多くの地方で行われているようだ。

(※注4)精霊流し:家々に迎えた先祖の霊を、祀り終って送り流すお盆の行事のことである。送り火の一種で、船にしつらえた灯籠を川や海へ流しこの灯籠と一緒に盆に迎えた先祖の霊を送り出す行為が原型だ。九州北部での精霊流しは有名である。場所によっては葦で大型の船を造って流すようなところもある。

 精霊流しの際には、盆の間に供えた野菜や果物などのお供え物も流す。これは祖先の元へ供物を贈るという面と、死の世界と関わった穢れ(けがれ)を水によって清めるという面をもったものであろう。水面に揺れる灯火には、先祖の霊を送り流そうとする気持ちが込められている。

(※注5)盆踊り:今は娯楽行事(あるいは観光用の行事?、阿波踊りなど)となっている盆踊りも元々は、盆に返ってきた祖先の霊を迎え慰め、そして返すための行事であった。

 元来は縦に列をなして踊る形であったようだが、現在では輪になって踊る輪踊りも盛んである。輪踊りの場合は中心は精霊棚であったのであろうが、現在は太鼓の載った櫓だったりする。

(※注)盆と藪入り:現在もお盆の時期は故郷への帰省ラッシュの時期である。現在よりも休みの少なかった時代、盆には奉公人が休みをとって実家に帰ることが出来る時期で、これを「藪入り」と称した。

 この時期はまた、他家に嫁いだ女性が実家に戻ることの出来る時期でもあり、自分と自分の家(先祖、ルーツ・・・)の繋がりを確認する時期だったようだ。


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2006年08月05日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(五)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(五)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「迎え火」「迎え盆」
 お盆には、先祖・祖霊(※注1)や亡くなった人たちの精霊(※注2)が燈明を頼りに帰ってくるといわれ、十三日の夕刻に、仏壇や精霊棚(しょうりょうだな)の前に盆提灯や盆灯籠を燈し、庭先や門口で迎え火として麻幹(おがら=芋殻)を焚く。それが「迎え火」(※注3)である。

 盆提灯をお墓で燈し、そこでつけた明かりを持って精霊を自宅まで導くという風習もあり、これを「迎え盆」ともいう。それぞれの「家」毎に鐘やご詠歌や迎え火を設け、先祖の霊魂(※注4)を家の中まで招き入れるのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)祖霊という概念は柳田國男が提示した。柳田によると、日本人の民俗的霊魂観のうち、家を興した開発祖先の霊や、それに続く代々の子孫を養育して死を迎え、死後直系の子孫によって四十九日とか一回忌・三回忌というように年忌法要を営んでもらいつつ徐々に浄化をはたす。

 そして誰それの霊としての個性を消失させ、その家の集合的霊格ともいうべき神(もしくは先祖一般、ご先祖様)に融合昇華したと考えられる霊が、祖霊なのだ。

 したがって、祖霊観念は日本人の家意識と密着しており、死後に祖霊として祀り続けてほしいが故に(すなわち無縁霊として打ち棄てられたくないために)、人々は直系の子孫の繁栄と家の永続を願うのである。ただ、近年の家意識の変容は祖霊観にも少なからぬ影響を与えている。

(※注2)祖霊を迎えて行われる代表的行事がお盆とお正月である。家々のお盆行事の中心は祖霊との交歓にある。長野県の諏訪湖畔では「爺さま婆さま、この明りでお出でお出で」と唱えながら墓地で火を焚き、そこから手を後ろに回して爺・婆を背負う格好をして家に戻るというが、この爺・婆には特定の人がイメージされているのではなく、祖先一般すなわち祖霊なのだ。

 このように、あたかも眼前に祖霊の姿が見えるかのごとく、家に案内して盆棚に迎え入れる例は全国に多く、供物をし、その前で家族・一族が数日間賑やかに過ごすのは盆の一般的光景である。

 正月に迎える歳神(年神、稲魂であり祖霊でもある)の性格は盆に迎える霊より複雑であるとはいえ、祖霊としての性格も十分に認められる。このような盆と正月の行事は、一年を両分したそれぞれ最初の月の祖先の魂祭りだと考えられている。

 卯月八日(うづきようか)の神迎えや春秋の彼岸行事も祖霊をめぐる行事であり、霜月二十三夜の大師講や各地の春秋の田の神・山の神去来伝承にも、祖霊の姿を垣間見ることができる。

(※注3)祖霊は家の神なので、氏神信仰とも深い関係にある。氏神には古来以来の変遷があり複雑多岐にわたるので、お盆のような祖霊のみで氏神信仰を理解することはできない。少なくとも、屋敷氏神や草分け宅の祖霊を核に発展したことの明らかな村氏神は、祖霊とかなり深い関係にある。

 平安時代の官人社会では、二月もしくは四月と十一月の春秋二回氏神祭祀をしていたことが明らかになっており、これは神社の祭日にも反映されているとされている。この際日は屋敷氏神や村氏神の祭日とも概ね一致しているので、両者の本質的同一性が確認されれば、祖霊は日本の祭りの考察に欠かせない存在となりそうだ。

(※注4)迎え火とは、お盆に先祖の霊を迎えるために焚く火のことである。お盆の十三日夕方が多いようだが、お盆期間中毎日焚く所もある。墓・辻・門口などのどこかで焚いたり、墓で焚いた火を小さな松明や提灯に点じて持ち帰り再び門口で焚く例など、方法は各地で様々である。

 燃料には麦藁・稲藁・麻幹(おがら)・松の小片・白樺の皮などが用いられている。焚くときは「おじいさんもおばあさんもこの火でござっしゃい」などと祖先迎えの言葉を唱え、そのあと霊を背負う格好をして家に入り盆棚に落ち着かせる仕草をする所や、近くの山頂でムラ共同で杉の葉などを焚き、その煙に乗って祖先が訪れると考えている所もある。


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2006年08月04日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(四)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(四)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、先祖霊(祖霊)祭り・魂祭り

 お盆の行事の中心は、家々に先祖霊を迎えて供養することにある。それに伴って訪れる様々な無縁霊・餓鬼の供養も同時に営まれる。日本の古い信仰では、御魂には生者のものと死者のものがあるとされていた。生者の御魂を拝するほうは、宗家の主人や両親に魚などの食物を贈って祝う「生見玉(いきみたま)」の習俗としてお盆行事の一部をなし、これは「生き盆」と称されている。

 「生見玉(いきみたま)」の意識は近年衰えつつあるとはいえ、ますます盛んになる中元の贈答が生見玉への贈り物の延長だとも考えられる。また一方、死者の御魂には仏教が強く関与し、その供養はお盆行事の中核をなしている(お盆には寺僧の関与が強く、一般には仏教行事と多くの人に理解されているが…)。

 柳田國男の分析によると、お盆に祀る死者の御魂には精霊(祖霊)、新精霊(あらじょうろう)(注1)、外精霊(ほかじょうろう)(注2)の三種があるとされている(注3)。

 祖霊とは、その家のかつての戸主夫婦の霊で、死後年を経て浄化され穏やかになり、お盆の期間子孫に迎え祀られて家の豊産安寧を保証してくれると信じられている(先祖霊・祖霊は清らかな神と認識されている例が多い上、健在な両親に対して生臭いもの(魚)を供するというような反仏教的性格もある)。

 現在、各地のお盆行事は複雑で、祖先の「魂祭り」が中心であるとはいえ、それに健在な親を祝う「生見玉(いきみたま)」の習俗、稲の予祝や畑作物の収穫祭的要素、中元(七月十五日)を祝う考えなどが加わっていった。

 お盆に農耕儀礼的性格のあることは、盆棚の飾りや供物に様々な畑作物や稲の青苗を用いていることからもいえる。また、中国の麦作地帯の収穫祭に源があるという中元の祝いと無関係ではないようだ。

 日本のこの時期は、稲作、畑作ともに作業が一段落し、過酷な夏の暑さも峠を越えつつある時で、次に秋を控え、季節の変わり目を意識した何らかの神祭りがあったと思われる。それが民間への「盂蘭盆会」や「中元」の浸透定着を容易にすると共に、お盆行事の構成要素にもなった。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(注1)新精霊(あらじょうろう)とは、一年ないし三年以内に亡くなったその成員であった者の霊で、死後まだ間がなくて十分に浄化されておらず、荒々しく祟りやすいと考えられている。そのため新精霊を祀る家のお盆は期間がやや長く、祭り方全般が丁重で、それだけ寺僧の関与も強いそうである。このお盆は吉事盆(しばらく不幸の内家のお盆行事)に対して新盆(あらぼん)・初盆(はつぼん)などと呼ばれる。

(注2)外精霊(ほかじょうろう)とは、祖先霊以外の餓鬼・無縁・法界などと呼ばれる、祀る子孫のいない諸霊のことである。招かないのに祖霊や新精霊に随伴してくるとされ、祀り方は全般において差別されている。ただ、外精霊はお盆行事の主役とはいえないが、日本人の霊魂観を知る上では無視できない存在である。

(注3)死をめぐる日本人の民俗的霊魂観によると、肉体は腐敗消滅しても霊魂だけは分離してどこかに存在し続けるとしている。また肉体から分離した当座の霊魂は荒々しいとされている。このような霊魂すなわち死霊は、放置すれば山野に盤鋸して激しく祟りをなすと考えられており、丁寧に鎮め祀れば次第に祟りを和らげ、逆に人々を守護してくれるようにもなると考えられていた。こうした考えは、平安時代、「御霊信仰」を生み出していくのである。


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2006年08月03日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(三)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(三)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、旧暦による民俗習慣

 東京あたりでは、七月十五日(新暦)を中心に、十三日を「迎え盆」、十六日を「送り盆」といい、十三日から十六日までの四日間を「お盆」の期間(※注1)としているそうだが、関西をはじめ全国各地とも、こと「お盆」に関しては、圧倒的に旧暦の七月十五日もしくは、その便宜上の変形である新暦の八月十五日を中心に「月遅れのお盆」が行われている。

 この現象は、「正月」をはじめ数々の伝統的な節句や民俗習慣が、なんでもかんでも「文明開化」の名の下に欧米化を進め、何の関連もない新暦(グレゴリオ暦)で実施されるようになった明治期以後の日本にあって、奇跡的にも旧暦の側が優勢な民俗習慣として残っている(※注2)。

 お盆は、元来は日本固有の先祖祀りがモトになっている。ところが、江戸時代に入り、幕府が檀家制度により、庶民の先祖供養を仏式によるよう強制したため、お盆も仏教のみの行事と誤解されて、現在に至っているのである。

 我が国では、古くから神祭りと共に、先祖の御霊を丁重にお祀りする祖霊祭祀が行われ、人々は神と祖霊の加護により平安な生活を過ごせると考えていた。この神とは唯一絶対の神でなく、自らと繋がりのある先祖が徐々に昇華して神となった存在であると信じていたのである。

 年中行事の中で、お盆と正月が二大行事として重視されるのも、お盆が先祖を、お正月が歳神(稲魂であり祖霊でもある)をお祀りする行事として、いづれも我々と繋がりのある祖霊や神々をお招きするという意味を持つからなのだ。

 ちなみに、仏教行事のお盆は、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典によるものであり、仏弟子の目連が餓鬼道に落ちて苦しんでいる母親を救うために、釈迦の教えで、七月十五日に安居(あんご・修行)を終えた僧侶を百味の飲食(おんじき)を供えて供養したところ、その功徳により母親を含め、七世の父母(七代前の先祖)まで餓鬼道から救済することができたという孝行説話に基づくものである。

 仏教が我が国に伝来すると、こうした盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事が諸寺院において行われるようになった。当初は僧侶の供養が中心だった「盂蘭盆会」は、その後、我が国の祖霊祭祀と結びついて、先祖を祀る「お盆」となるのだ。 現在、地域や各家庭により新・旧暦を基準とし、七月十五日前後にお盆が行われるが、いづれにしても、日本古来からの大切な「先祖まつり」の時であることに変わりはないのである。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)お盆は先祖が帰ってくる期間あり、日本の重要な年中行事の一つである。また、お彼岸と並んで大きな仏教行事の一つで、先祖の霊を供養する行事だ。お盆は盂蘭盆ともいうが、これは、梵語(古代インド語)の「ウランバナ」(逆さ吊りの意)が語源になっている。

 お盆は、この盂蘭盆が略されたものといわれている。お盆には先祖の霊が家に帰ってくると考えられており、各家庭では迎え火を焚いて先祖の霊を家に迎え、ナスやキュウリで作った牛馬などのお供え物を用意して先祖の霊を供養する。先祖と一緒に過ごした後は、送り火を焚いて先祖の霊を見送る。

 お盆の由来はというと、釈迦の弟子の目連が、餓鬼道におち、逆さに吊るされ苦しんでいる母親を助けてほしいと釈迦に教えをこい、七月十五日に供養をしたのが、盆行事の始まりといわれている。現在では、新暦の七月十三日に先祖の霊を迎え、十六日の夕方に送り出すのが一般的だが、旧暦の七月十五日前後や月遅れの八月十五日前後に行う地域も多くなっている。八月十三日から十六日頃には、お盆休みで帰省ラッシュになるのも、都会の人々が、お墓参りをするために故郷に帰る習慣が定着化したためである。

(※注2)元来、お盆の行事は旧暦の七月十五日に行われていたのだが、明治時代に新暦になってからは時期が三つに分かれてしまった。

 一つは新暦になってもそのまま七月十五日におこなう七月盆、つぎに七月ではあまりに早すぎるというので月遅れでおこなう八月盆、もう一つは旧暦の七月十五日におこなう旧暦のお盆である。関西地方ではほとんどが八月盆のようである。どうも、本来は初秋の行事であったようだ。


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2006年08月02日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(二)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(二)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、盂蘭盆経と仏教説話

 「盂蘭盆会(うらぼんえ)」(※注1)とは、陰暦七月十五日(今の暦では、八月十五日と定められている)を中心に行われる先祖供養の法要である。「盂蘭」とは梵語(ぼんご=中期インド語の総称)で、意訳すると「倒懸」(とうけん)といい「さかさづりの苦しみ」という意味があり、大きな苦痛をあらわしている。

 『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』(※注2)には、釈尊(しゃくそん=お釈迦様)の十大弟子の一人である目連(もくれん)が、神通力で亡き母の姿を見たところ、母親は餓鬼道(がきどう=むさぼりの強い者の死後の世界)に落ちて苦しんでいたそうだ。

 目連は、母の苦しみを「何とかして救いたい」と、釈尊に尋ねると、「七月十五日に、過去七世の亡き先祖や父母たちのために、ご馳走を作り、僧侶たちに与え、その飲食をもって、供養するように」と教えられる。

 釈尊の教えに従って祭壇(さいだん)を設けて三宝(さんぽう=仏〈悟りを開いた人〉。法〈仏の説いた教え〉。僧〈仏の教えに従い成仏を目指す出家者〉)に供養すると、目連の母親は餓鬼道の苦を逃れ、無事成仏することができたそうだ。このようにして母を救ったということが説かれている。これが「盂蘭盆会」の起源・始まりであるとされているのだ。

 この仏典『盂蘭盆経』は、後代に中国で創作されたものとされている。これが、日本に伝えられたもので、日本では西暦六百年頃から公に行われるようになったようである。のちに朝廷の恒例仏事となり、また諸大寺でも行われるようになり、しだいに民間の各寺院へと普及していき、今日もなお各地の寺院などで盛んに営まれている。

 「盂蘭盆会」は、もともとは中元(ちゅうげん=陰暦七月十五日)の節目に先祖を供養するということと習合されて現在の様式になったようだが、旧暦で行うところや新暦の七月および八月に行うところがあり、またその期間も必ずしも一定していないが、現在では新暦の八月十三日から十五、十六日までとするのが一般的となっている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)うらぼん 【盂蘭盆】 大辞林第二版より 〔仏〕〔梵 ullambana〕もと中国で、『盂蘭盆経』に基づき、苦しんでいる亡者を救うための仏事で七月十五日に行われた。日本に伝わって初秋の魂(たま)祭りと習合し、祖先霊を供養する仏事となった。迎え火・送り火をたき、精霊棚(しようりようだな)に食物を供え、僧に棚経(たなぎよう)を読んでもらうなど、地域によって 各種の風習がある。現在、一般には八月一三日から一五日に行われるが、七月に行う地域も多い。お盆。盂蘭盆会(え)。盂蘭盆供(く)。精霊会。精霊祭。歓喜会。魂 (たま)祭り。

(※注2)『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典には、釈迦の十大弟子の一人に、目連(もくれん)という人が居た。目連は神通力第一と言われ、摩訶不思議な力をもった人のようである。この目連が、ある日、霊能力を使って、亡くなった母親を死後の世界に探しに行き。母親が、餓鬼道に落ちて地獄の苦しみを味わっている事に驚いた目連が、お釈迦様にどうすればよいかと相談をした。

 釈迦は、当時のインドで修行の終わる日(七月十五日)に、僧侶達に食べ物を施すようにいう。目連が言われたとおりに修行を終えた僧侶達に、食べ物を施し、その功徳によって母親が救われたというのである。この『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』には、インドのサンスクリット語の原典がなく、お釈迦様がそんなことを言ったのか?、疑問もあるのだが。

 この「盂蘭盆経」の教えは、孝養を重んじる中国で尊ばれ、日本でも、仏教伝来後まもなく宮中行事として行われるようになったといわれている。そして、江戸時代になると檀家制度の確立とともに、祖先崇拝行事と深く結びつき、他の亡者供養もあわせて行うようになった。


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2006年08月01日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(一)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(一)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「ullambana(ウラバンナ)」

 なぜか、お盆は私達日本人には、何か特別こころに響くものがある。夏の行事というと真っ先に頭に浮かぶのがこの「お盆」という言葉であるぐらい、夏の風物詩となっており、私達の生活になじんでいる(※注1)。

 お盆は一般に「仏様を敬う」あるいは「ご先祖さまを尊ぶ」というように、ご先祖や亡き人の霊を迎えて、家族揃って丁寧にもてなし、ご先祖に感謝したり、父母の長寿を願ったりする行事である。
 このように、我々日本人の生活習慣の一部、お正月のような年中行事の一つともなっているほどであり、夏の重要な行事だ。

 お盆と正月は、日本の二大国民的行事である。お盆とりわけ八月の月遅れの盆の頃は、故郷で、お盆を迎える人たちの帰省ラッシュが全国で起こる。民族の大移動というべき光景が、日本各地で繰り広げられる。

 お盆というのは、昔から日本人の生活のなかに、しっかりと根ざしている、夏の季節の大切な節目となった。しかし、レジャー化しつつある最近の傾向は、日本の文化がだんだん薄れていくようで少々残念ではあるが・・・。

 「お盆」の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」(※注2)である。盂蘭盆とは、サンスクリット語の「ullambana(ウラバンナ)」を音訳したものである。「(先祖や関係者が地獄や餓鬼道に落ちて)逆さづりにされ(苦しんでいる)」という意味で、そのために供養を営むのが盂蘭盆会とされている。

 もっとも、この行事自体は、輪廻転生(たとえ身内であっても、転生したら別人格の他者になる)を説くインド的考え方ではなくて、先祖を祀ることを重視する中国(儒教)的な発想である。あるいは、もっと踏み込んで、日本の固有の信仰・風習の祖霊崇拝であるといってもよいかもしれない(※注3)。仏典に『盂蘭盆経』というのがあるが、これなど、後代に中国で創作されたものとされている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)我国では推古天皇十四年(六〇六年)七月十五日に斎会を設けたのが始まりとされているが、本格的には斉明天皇三年(六五七年)七月十五日に、飛鳥寺(元興寺)の西に須弥山の像を作り、盂蘭盆会を催したのが初めてではないかと考えられている。

 聖武天皇天平五年(七三三年)からは、盂蘭盆会の供物を大膳職の管掌と定められ、以降、平安時代には盛んに行われた。私達日本人は実に約千四百年もの間、お盆(盂蘭盆会)の行事を行ってきたのであるが、民間(一般庶民)で行われる様になったのは、江戸時代以降とされている。

(※注2)盂蘭盆(うらぼん)とは、梵語の「ウラバンナ」の音写だが、意味は「アバランバナ」つまり倒懸(とうけん・さかさ吊り)で、通常は単に盆といわれている。この盂蘭盆会にその由来を説いた「仏説盂蘭盆経」の教えにより、後には先祖供養の行事となるが、倒懸の苦を受ける死者のために祭りを行い、三宝に供養して、その苦を免れしめる行事である。

 この行事はインドの古い農耕儀礼としての「ピンダの祭」、すなわち死者祭祀・祖霊祭祀と仏教の夏安居の終了に際する僧院の自恣供養会との習合したもので、それが中国に伝来されるに至って、生者(父母・六種の親属)の供養にまで拡大されるようになった。

(※注3)我が国で行われている盆行事は、中国から伝来した行事と、我国固有信仰とが習合したものであることは明らかであり、「ぼんがま」といって屋外にカマドを築き、そこで煮たきして会食する習俗が、今なお残っていることから考えても、祖霊を迎えて共食をするという古い信仰形式がこの習俗の基盤をなしており、それはまた、正月行事と非常な類似をみせているものである。


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2006年07月31日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(九)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(九)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、大阪天満宮と菅原道真公

 大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期に遡る。菅原道真公は、延喜元年(九〇一年一月二十五日)、政治の上で敵対視されていた藤原時平の策略により昌泰四年(九〇一年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになる(※注1)(※注2)(※注3)(※注4)。

 菅公(菅原道真公)は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向うが、二年後にわずか五十九歳でその生涯をとじる(延喜三年/九〇三年二月二十五日)。その約五十年後、天暦三年(九四九年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったという。この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公(菅原道真公)に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座された。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)菅原道真公は、多少の不遇の時を過ごしたが、宇多(うだ)天皇に寵愛され昌泰二年(八九九)、ついに左大臣藤原時平(ときひら)に次いで従二位右大臣となる。これは学者の家柄に生まれたものとしては、異例の出世であった。

 しかし、それが左大臣藤原時平(ときひら)を初めとする多くの人の嫉妬と猜疑を招き、「天皇の廃立を謀った」として(むろん時平らの策謀だが)、遂に昌泰四年(九○一年)一月、九州の大宰府に配流(はいる)となる(太宰権帥〈だざいのごんのそつ〉に左遷。これは中央政界での失脚を意味する)。

(※注2)昌泰四年(九○一年)二月一日、菅原道真はあわただしく都(平安京)をあとにし、九州の大宰府に向うが、厳しい監視のもと食料や馬の支給も無く過酷な旅であったようだ。大宰府での暮らしも、惨めの一言に尽きるもので、粗末な家屋に井戸も無く、老齢で病みがちな菅原道真は自ら井戸を掘らなければならなかった。
 それ以来、菅原道真は憤懣やるかたない日々を過ごすことになるが、流されて二年後の延喜三年(九○三年二月二十五日)、菅原道真は大宰府で亡くなる(五十九歳の生涯を終える。無念の死であったのであろう)。

(※注3)菅原道真の屍を、近臣の味酒安行(うまさけのやすゆき)たちが牛車で運んでいると四堂(よつどう)という場所で、急に牛が歩みを止めて動こうとしなくなったので、その地に菅原道真を埋葬、そして延喜五年(九○五年)、御堂を建て、安楽寺と称したとされている。これが大宰府の起源である。京での崇りの後ちの、正一位太政大臣の贈位。最後は天満大自在天神(天神様)と崇められ親しまれる神となる。

(※注4)天神様はもと崇り神だ。平安京を震撼させた荒ぶる魂・怨霊の神で都人に恐れられていた。しかし、怨霊となった菅原道真公は神の位に昇り、「天満大自在天神」という神名で呼ばれるとようになる。そして天神様を祀る神社を「天満宮」といい、京都の北野天満宮を筆頭に、天神信仰は全国に広まった。現在全国の神社総数約八万社のうち、天満宮の数は一万二千社を超えるといわれている。


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2006年07月31日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十一)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十一)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノオ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(4)

 祇園社(祇園御霊会)の「祇園の神」(※注1)は「牛頭天王」(ごずてんのう)(※注2)とされているが、これも明治後スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた(※注3)。

 それはスサノヲ命と牛頭天王は同体(※注4)だということからだ(同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難でる。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。

妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更された。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であったのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 古来より疫病除災の神として信仰を集めた「祇園の神」は、八坂氏(八坂造一族)の祀ったスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)、道教系の牛頭天王(ごずてんのう)とその妃神頗梨采女(はりさいにょ=竜王の第三女)と子供たちである八王子であった。

 しかし、江戸時代後期の平田神道(国学)や明治維新の「神仏判然令」によって、『記・紀』神話に基づいて編成し直され、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)とクシナダヒメ命(櫛稲田姫命)、とヤハシラノミコガミ(八柱神子神)ということに、無理やりに一本化される。

 庶民からは、牛頭天王は、武塔天神ともいわれ中国の辟邪神天刑星の属性を持ち、頗梨采女は歳徳神として、八王子は大将軍・歳破神・豹尾神などのいわゆる遊行性の「金神七殺」系の神(「恐ろしい危険な神」であると同時に、「悪方向・災難からわれわれを守ってくれる神」)として、深く信仰されていく。

(※注2) 牛頭天王(天竺の牛の頭に似た「牛頭山にいたと伝えられ、そこにあった栴檀が熱病に効くところから、疫病などを防除すると信じられた)は別名「武塔天王」(武装して手に塔を捧げ持つ毘沙門天と同体異名とされた)とされるが、牛頭天王=武塔天王は、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)であると見なす所伝が古くからあった。

(※注3) 明治時代の初めの「神仏分離令」(神仏判然令)により改名するまで、八坂神社は祇園社と称して、「牛頭天王(ごずてんのう)」が祀られていた。

 牛頭天王とは、もともとインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神で、日本では、疫病神(えきびょうしん)として考えられるようになった。

 荒ぶる神性が、疫気を祓う威力を発すると古くから信仰上でとらえられてきのであろう。スサノヲ命は、一名を「糺(ただす)の神」ともいう。人々を悪疫から守り秩序ある状態に導く善神と意識されたからだ。

(※注4) スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)はその神威(霊威)の強大さからなのか(古代の人は、『記・紀』神話の荒れすさぶる神・スサノヲ命が、追放され辛苦を重ねた末、心を清めて、この世を救う善神・英雄神となるスサノヲ神話を通して、スサノヲ命・須佐之男命・素盞嗚尊に威力のある神、疫病防除の霊験を持つ神と信じたのであろう)、牛頭天王(疫神=疫病払いの神)と習合(同体化)する。

 同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。スサノオ命(須佐乃男命・素盞鳴尊)このように疫神(疫病払いの神)・農耕神・雷神・水神として崇拝されていくのだ。


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2006年07月30日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(八)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(八)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、大阪天満宮と大将軍社
     
 大阪天満宮(大阪市北区天神橋2丁目鎮座)は、道真公が太宰府に下向の際に、河内の道明寺に泊り大阪より船出の折、大将軍社に参詣され大将軍の森から乗船し西に向かったとされている。後の天暦三年(九四九年)のある夜、不思議な出来事が起こった。

 大将軍社の前に、一夜のうちに七本の松が生え、夜毎に、その梢は金色に光り輝いたという。この報告を受けた村上天皇は、これを道真公の縁りの奇瑞として、村上天皇の勅願により大将軍の森に大阪天満宮が創建された。以来この森は「天神の森」と称されている。

 大将軍社については、歴史は古く、飛鳥時代の白雉元年(六五〇)、孝徳天皇が難波・長柄豊碕宮鎮護のために、宮の西北に置いた守護神大将軍社が、現在境内にある大将軍社とされている(長柄豊碕宮鎮護のため、現在境内摂社の大将軍社を祀ったのが最初といわれている)。実際、いまも地主神として大阪天満宮の一角に鎮座している。

 すると、道真の参拝をきっかけに天満宮へ変わる以前、すでに三世紀の歴史があったわけだ。この「大将軍」(※注1)は、京都の祇園社の牛頭天皇(素戔嗚尊)の一子が道教の大将軍である。ここにも道教の影響が色濃くあるのだ。

 大阪天満宮の天神信仰は、星合七夕祭のような疫病への対処を星に祈る星辰信仰と、もともと天満の地に祭られていた大将軍社と菅原道真の怨霊を鎮める信仰の三つが結びついて天神信仰になったようだ。疫病が流行る夏にこうした祭りが行われたのは、昔の人々の疫病や災厄の恐怖から逃れたいとの切なる願い(疫病の流行る夏を無事過ごせるように)が、「穢れの祓え流し」の儀式(※注2)としての祭りと信仰を生みだしたのであろう。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)桓武天皇は怨霊に対しての怯え方は異常で平安京の周囲に「結界(霊的なバリア)」を何重にも張り巡らせていた。桓武天皇は「風水による結界」だけでは物足りず、平安京の周囲四カ所にあった「磐座(いわくら・古代の人々が神に祈りを捧げた巨石)」をわざわざ掘り起こし、「一切経」という悪鬼を退散させるお経をその下に埋め込み、平安京の周囲に新たに「結界」を張ったと言われている。

  そして更に桓武天皇は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の弟「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を平安京の周囲に祀って「大将軍(たいしょうぐん)」と名付け、これまた霊的な結界を張ったという。北…「大将軍神社」(京都市上京区西賀茂角社町) 、東…「大将軍神社」(京都市東山区東山長光町) 、南…「大将軍社(藤森神社)」(京都市伏見区深草鳥居崎町) 、西…「大将軍八神社」(京都市上京区一条通御前西入ル) 。すごい念入りに三重の結界を張り巡らしたのだ。

(※注2)鉾流神事は天神祭以前の神事に由来するともされ、「穢れの祓え流し」の儀式だったと考えられている。もっとも、祓え流しには人形(ひとがた)が形代(かたしろ。ケガレを移す身代り)として使われていた。その人形や形代は、下流へ、海へと流されていったんのだ。そしてその海は常世へと至る(大祓え祝詞)。常世はまた、神のいる所でもあります。古式では、鉾流しは旧六月一日に、六月二十五日に船渡御が行われた。


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2006年07月30日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(3)

 そのことは、『伊呂波字類抄』に、「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神ともいう」と記されており、さらに『備後国風土記』の逸文には、「昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったけれども宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行したとき、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災から免れさせたが、その他の者はことごとく死に絶えた」という説話が記されていて、これに「われはハヤスサノヲの神(速須佐雄能神)なり」と云ったとあることによる。

 『釈日本紀』には「これすなわち祇園社の本縁なり」ともあり、古くより、牛頭天王(※注1)と武塔神(※注2)が、スサノヲ命(素戔嗚尊)(※注3)と習合されていたことがわかる。昔は、疫病は死に直結する恐ろしい災厄であった。だから、疫病を鎮める力を持つ神に対する信仰は、大変に篤いものがあった。そうした神様が京都八坂神社の牛頭天王(ごずてんのう)であり、武塔(むとう)神であり、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)であったのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがみられる。

 天神信仰では、農耕の際、雨乞いの祭りをするのだが、そのときに犠牲を捧げるのだそうだ。それが牛や馬であった。牛・馬は家畜というよりも、もとは犠牲の動物だったのだろうか。そうしたことからか、牛・馬は神社と深い因縁があるようになる(「絵馬」は元来、馬の犠牲の名残だ。京都では祈雨止雨の祈祷の際、馬が奉納されたそうである)。古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとしたのである。

(※注2) 『備後国風土記』は次のように語っている。「昔、北の海にいた武塔神(スサノヲ)が、南の神の娘に求婚に来た折り、日が暮れてしまった。丁度そこに住んでいた、蘇民将来、巨旦蘇民の兄弟に宿をこうた。弟の巨旦蘇民は、たくさんの家や倉などを所有している豊かな生活にもかかわらず、宿を貸さなかった。兄の蘇民将来は、子沢山で食べる物もない貧さなのに、快く武塔神を泊めた。その後、武塔神は再び蘇民将来を訪れ、『茅の輪を腰の上につけなさい』といった。その夜、武塔神は、この茅の輪を身に付けていた蘇民将来の子孫以外を悉く殺してしまったのである。そして次のように言う。『後の世に病気などが流行った時、蘇民将来の子孫といって、茅の輪を腰に付ければこの害を逃れることができる』と…。この神話伝承に基づき、茅の輪神事や蘇民将来に関する行事が行われている。

(※注3) かなり早くから牛頭天王=武塔神とスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)とを同一視する習合思想が流布していたように思われる。古代の人は、『記・紀』神話(荒れすさぶる神が、追放され辛苦を重ねた末、心を清めて、この世を救う善神・英雄神となるスサノヲ神話)を通して、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)に威力のある神、疫病防除の霊験を持つ神と信じたのであろう。


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2006年07月29日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(七)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(七)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、大阪天満宮の創始

 大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期に遡る。菅公(菅原道真)は、延喜元年(九〇一年一月二十五日)、政治の上で敵対視されていた藤原時平の策略により昌泰四年(九〇一年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになる。

 菅公(菅原道真)は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向うが、二年後にわずか五十九歳でその生涯をとじた。(延喜三年/九〇三年二月二十五日)その約五十年後、天暦三年(九四九年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったという。この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公(菅原道真)に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座されたという(※注1)。

 大将軍社(※注2)は、その後摂社として祀られるようになったが、大阪天満宮では、現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」という祭りを行い、神事の中で「祖(そ)」と言ういわゆる借地料を納める習わしになっている。

 大将軍社のいわれや歴史、信仰については、大化改新後の孝徳天皇が都した難波・長柄豊崎宮の西北に置かれた守護神大将軍社だといわれている。実際、いまも地主神として天満宮の一角に鎮座している。この「大将軍」は、祇園社の牛頭天王の一子が道教の大将軍であったことから、道教の影響を窺うことができる。

 京都の御霊会でも「疫神」を祓い流すことが行なわれていたが、それが流されたのがここ大阪湾であった。天満の地は、菅公(菅原道真)に縁のある地だが、それ以上に、かつてそれ以前からこの「祓い流し」の適地として、大阪天満宮があったように思われる。それが「天神祭」の鉾流神事や船渡御の船行事にも繋がっているように思われるのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)天神(天神様)はもともと農耕を左右する天候、特に雨をもたらす雷の神様であった。しかし、菅原道真公の左遷と憤死の後、京の都が相次ぐ天災飢饉に見舞われると、誰となく「恨みを残して死んだ菅原道真公の怨霊が祟っているのではないか」と噂するようになる。菅原道真公は当初、崇り神とされたのだ。

 平安京を震撼させた荒ぶる魂・怨霊の神で都の人々に恐れられていた。その菅原道真公の祟り(怨霊)と農耕の神の「雷公」「雷神」のイメージとが結び付き、天神信仰が一気に拡大していったのである。

 もともと怨霊であった菅原道真公も、「天満大自在天神」という神名で祀られるようになると国家鎮護の神となり、五穀豊穣の神、歯痛の神などへとイメージを変えていく。そして天神様を祀る神社を「天満宮」といい、京都の北野天満宮を筆頭に、天神信仰は全国に広まった。現在全国の神社総数約八万社のうち、天満宮の数は一万二千社を超えるといわれている。

(※注2)『和漢三才図会』には、京都の「大将軍社」について記されている。それによると、「桓武天皇は平安域の四方(東西南北)に将軍塚を築き、王城の鎮護とされた。各々祭る神に異説がある。西京一条の西、大将軍町(現上京区一条通御前通西入)に大将軍杜があり、現在の祭神は素盞嗚尊五男三女の神と、聖武・桓武両帝である。元は西方の社で星を祭ったという。大将軍杜 四ヵ所にある。」とある。

 「大将軍」とは、陰陽道でいう方位の吉凶を司る八神の一柱であったそうだ(大歳神・大将軍・大陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神)。

 しかも、この方位を司る「大将軍」は、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)と同一視されていたようだ。素戔嗚尊は牛頭天王であり、暦のすべてを支配する神として信仰され、櫛稲田媚命は歳徳神、八柱之御子神は八将神として暦の上では吉方・凶方を司る神とされている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)桓武天皇は怨霊に対しての怯え方は異常で平安京の周囲に「結界(霊的なバリア)」を何重にも張り巡らせていた。桓武天皇は「風水による結界」だけでは物足りず、平安京の周囲四カ所にあった「磐座(いわくら・古代の人々が神に祈りを捧げた巨石)」をわざわざ掘り起こし、「一切経」という悪鬼を退散させるお経をその下に埋め込み、平安京の周囲に新たに「結界」を張ったと言われている。

  そして更に桓武天皇は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の弟「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を平安京の周囲に祀って「大将軍(たいしょうぐん)」と名付け、これまた霊的な結界を張ったと言われている。北…「大将軍神社」(京都市上京区西賀茂角社町) 、東…「大将軍神社」(京都市東山区東山長光町) 、南…「大将軍社(藤森神社)」(京都市伏見区深草鳥居崎町) 、西…「大将軍八神社」(京都市上京区一条通御前西入ル) 。すごい念入りに三重の結界を張り巡らしたのだ。


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2006年07月29日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十九)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十九)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(2)

 平安京の成立とともに人口が急増、それとともに疫病(悪疫)が度々流行る(むかしは、疫病の流行は大災害であった)。京の人々は恐怖し(※注1)、それを何とか防ぎ除くために、「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」「御霊会(ごりょうえ)」(※注2)が頻繁に行われた。

 京の郊外にあった八坂の地でも、貞観十一年(八六九年)、「御霊会(ごりょうえ)」が行われ、これが祇園祭(祗園御霊会)(※注3)の始まりとされている。さらに疫病(悪疫)を祓う威力(霊威)の強い神を求めようとした(※注4)。

 貞観十八年(八七六年)、播磨の広峯社(現姫路市内)から疫神=疫病払いの神として牛頭天王(すでに播磨の広峯社の時点で、牛頭天王と素戔嗚尊は同体化・習合されていたようだ)が勧請された。疫病払う神・牛頭天王(※注4)は、日本人にとっては素戔嗚尊であったのだ。また、スサノオ命(素戔嗚尊)は武塔天神ともされた。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 古代の人は、疫病を何ゆえに生ずると考えたのであろうか。古代の人は漠然とではあるが「疫神」の仕業と考えていたようだ。また一方では、政争などにより非業の最期をとげた者の霊が、怨みを晴らすため(怨霊)、この世に疫病などの災いをもたらすと考えたのである。このため、古くから「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」「御霊会(ごりょうえ)」が行われていた。

(※注2) 平安時代初期(九、十世紀頃)、京の都には幾度も疫病が流行した。医学の未発達な当時の人々は、それを疫神や祟り神の祟りだと考えのである。そこで、都のはずれで疫神にお経をあげたり、楽を演奏したりして慰め、町の外へ祓う儀式、「御霊会(ごりょうえ)」を行った。

 その頃の祇園は京の都の町外れにあたり、この「御霊会」がよく行われた。やがて祇園には、疫神を祓う威力があるといわれる、牛頭天王(ごずてんのう)が祀られた。これが祇園社、現在の八坂神社になる。

(※注3) 貞観十一年に疫病が流行した際、卜部日良麻呂が、数年前の神仙苑の「御霊会」にヒントを得たのか、京の都の東方向の郊外にあたる八坂付近の人々を率いて、疫病をもたらす怨霊を神輿に封じて神仙苑へ送り込むような祭りを行う。

 『祇園社本録縁録』には「貞観十一年(八六九年)、天下大疫の時、宝祚隆永・人民安全・疫病消除・鎮護のため、卜部日良麻呂(うらべひらまろ)、勅を奉じて、六月七日、六十六本の矛(長さ二丈ばかり)を建つ。同十四日、洛中の男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神仙苑に送り、以て祭れり。これ祇園御霊会と号す。爾来、毎年六月七日と十四日、恒例と為す」とある。

(※注4) 牛頭天王とは、もともとインドの祇園精舎の守護神で、中国で道教の神々と習合した後、日本では、疫病神(えきびょうしん)として考えられるようになった。また、祇園祭(祗園御霊会)は、祇園社の祭神であった「牛頭天王」を指して、天王祭とも呼ばれている。

 祇園社の社名の改称とともに、祭神も変更したが、祭りの名称は、そのまま残り、現在に受け継がれている。荒ぶる神性が、疫気を祓う威力を発すると古くから信仰上で捉えられてきたからだ。また、スサノヲ命(素戔嗚尊)は、一名を「糺(ただす)の神」ともいう。人々を悪疫から守り秩序ある状態に導く善神と意識されたからだ。


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2006年07月28日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(六)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(六)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、天神祭の歴史

 天満宮御鎮座の翌々年、天暦五年(九五一年)に社頭の浜から神鉾を流し、流れついた浜に斎場を設け、疫病のはやる夏を無事過ごせるように「禊(みそぎ)」を行なった。その際、神領民や崇敬者がこぞって船を仕立ててお迎えしたのが天神祭の始まりとされている。その後、幾多の変遷を経て、それ以来、船の数も増え、豊臣秀吉が大坂城を築いた頃には、今日のような船渡御の形が整ってく。
 堂島川への土砂流入で船渡御が中止になったこともあるがが、天下の台所(※注1)と呼ばれた元禄時代(十七世紀後半)(※注2)以降、天神祭は浪速の繁栄のシンボルとして隆盛をきわめ、享保年間(十八世紀前半)には「講」という祭りを支える組織が誕生し、新たにお迎え人形も登場し、祭りの豪華さは全国に名を馳せるようになった(元禄以後は、商人の町大坂の繁栄とともにますます隆盛を極めたという)。天神祭は、一千余年の歴史を誇る日本を代表する祭りである。

 幕末の政変や二度の世界大戦で中断があったものの、昭和二十四年に船渡御が復活。また、地盤沈下の影響で大川を遡航するという現在の形になったのは昭和二十八年からのことである。天神祭には幾多の変遷があり、その存続が危ぶまれた時期もあった(※注3)。しかしその度に困難を打開し、伝統を守り、盛り上げていったのは浪速っ子の土性骨と心意気である。天神祭は今も、そうした人々の熱いエネルギーに支えられ発展していった。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)天神祭が行われる大川は江戸時代には「出船千艘・入船千艘」 といわれ各藩の蔵屋敷がずらっと建ち並んでいたところである。また天満橋と天神橋の間には青物市場、堂島には米市場、雑喉場(ざこば)には魚市場があってたいそう賑わっていた。水を守り自然を大切にしながら、そこに神様をお迎えするというのが天神祭の基本である。

(※注2)天神祭の宵宮祭と本宮祭の両日、各町内の神輿や子供神輿がにぎやかに宮入りする。江戸時代には、二十四日の宵宮に氏地内の地車(だんじり)がクジで決めた順番通りに華やかに宮入りするのが、二十五日の船渡御と並ぶもう一つの天神祭のハイライトであった。最盛時には、七十台を越える地車が繰り出したという。今、ただ一台残る地車は、嘉永五年(一八五二年)製の「三ッ屋根地車」である。

 また、江戸時代には、各町の町人たちが「お迎え人形」を街角に飾った。人形は身長約二・四メートル、船渡御の際には人形船の舳先に立てて御神霊をお迎えしたことから、「お迎え人形」と呼ばれた。金糸・銀糸で縫いとった美しい衣裳・贅沢の限りを尽くした小道具など、それはもう豪華絢爛そのものである。

 当時は五十体ほどあったが、今は十七体が残るだけで、うち十四体が大阪府の民俗文化財に指定され、十六体が大阪天満宮に保管されている。天神祭の両日、そのうちの数体が境内に展示される。

(※注3)千余年の歴史ある大阪天満宮の天神祭は、厳粛な神事として古式の伝統を由緒正しく守りながらも、その時代時代の社会情勢にダイナミックに反応して今日に受け継がれてきた(天神祭は浪速っ子に支えられて続けられてきた)。

 しかし、昭和二十四年に船渡御が復活した後も、戦後二回ほど中止になったことがある。一回目は昭和三十三~三十四年のスターリン暴落で大阪の経済が落ち込んだ時だ。二回目は昭和四十九年の石油ショックの時である。


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2006年07月28日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十八)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十八)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(1)

 祇園祭(祗園御霊会)が始まったのは、平安京が定められて、都市化が進んだ貞観十一年(八六九年)だ。しかし、「祇園神」が鎮祭されたのは、それよりさらに古く、奈良時代以前に遡る。記録の上では詳らかでないが、斉明天皇二年(六五六)高句麗の使、伊利之使主(いりしおみ)が来朝したときと伝えられている。

 伊利之は『新撰姓氏録』に八坂造の祖に、意利佐の名がみえ、祇園社附近はもと八坂郷と称したことによる。すなわち、高句麗より渡来した人々が住みついて、スサノヲ命(素戔嗚尊)を祀ったとされている。また八坂氏は古くから八坂の地で、農耕神として「天神」(雷神)も祀っていた。

 平安京の成立とともに人口が急増、それとともに疫病(悪疫)が度々流行した(むかしは、疫病の流行は大災害でした)。京の人々は恐怖し、それを何とか防ぎ除くために、「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭(えきしんさい)」「御霊会(ごりょうえ)」が頻繁に行われた。

 都の郊外にあった八坂の地でも、貞観十一年(八六九年)、「御霊会(ごりょうえ)」が行われ、これが祇園祭(祗園御霊会)の始まりとされている。さらに疫病(悪疫)を祓う威力(霊威)の強い神を求めようとした。

 貞観十八年(八七六年)、播磨の広峯社(現姫路市内)から疫神=疫病払いの神として牛頭天王(すでに播磨の広峯社の時点で、牛頭天王と素戔嗚尊は同体化・習合されていたようだ)が勧請された。疫病払う神・牛頭天王は、日本人にとっては素戔嗚尊であったのだ。また、スサノヲ命(素戔嗚尊)は武塔天神ともされた。

 そのことは、『伊呂波字類抄』に、「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神ともいう」と記されており、さらに『備後国風土記』の逸文には、「昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったけれども宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行したとき、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災から免れさせたが、その他の者はことごとく死に絶えた」という説話が記されていて、これに「われはハヤスサノヲの神(速須佐雄能神)なり」と云ったとあることによる。

 『釈日本紀』には「これすなわち祇園社の本縁なり」ともありまして、古くより、牛頭天王と武塔神が、スサノヲ命(素戔嗚尊)と習合されていたことがわかる。昔は、疫病は死に直結する恐ろしい災厄であった。だから、疫病を鎮める力を持つ神に対する信仰は、大変に篤いものがあった。そうした神様が京都八坂神社の牛頭天王(ごずてんのう)であり、武塔(むとう)神であり、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)であったのだ。

 祇園社(祇園御霊会)の「祇園の神」は「牛頭天王」(ごずてんのう)とされているが、これも明治後スサノヲ命(須佐之男命・素盞鳴尊)に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた。スサノヲ命と牛頭天王は同体だということからである(同体化は、八坂神社創建の時点に遡ります。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難だ。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうである)。

 妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更された。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であったのだ。


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